大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和4年度(2022年度)本試験
問15 (第2問(小説) 問4)

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問題

大学入学共通テスト(国語) 令和4年度(2022年度)本試験 問15(第2問(小説) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)

次の文章は、黒井千次(くろい せんじ)「庭の男」(1991年発表)の一節である。「私」は会社勤めを終え、自宅で過ごすことが多くなっている。隣家(大野家)の庭に息子のためのプレハブ小屋が建ち、そこに立てかけられた看板に描かれた男が、「私」の自宅のダイニングキチン(キッチン)から見える。その存在が徐々に気になりはじめた「私」は、看板のことを妻に相談するなかで、自分が案山子(かかし)をどけてくれと頼んでいる雀(すずめ)のようだと感じていた。以下はそれに続く場面である。これを読んで、後の問いに答えよ。

立(たて)看板をなんとかするよう裏の家の息子に頼んでみたら、という妻の示唆を、私は大真面目で受け止めていたわけではなかった。落着(おちつ)いて考えてみれば、その理由を中学生かそこらの少年にどう説明すればよいのか見当もつかない。相手は看板を案山子などとは夢にも思っていないだろうから、雀の論理は通用すまい。ただあの時は、妻が私の側に立ってくれたことに救われ、気持ちが楽になっただけの話だった。いやそれ以上に、男と睨(にら)み合った時、なんだ、お前は案山子ではないか、と言ってやる僅かなゆとりが生れるほどの力にはなった。裏返されればそれまでだぞ、と窓の中から毒突くのは、一方的に見詰められるのみの関係に比べればまだましだったといえる。
しかし実際には、看板を裏返す手立てが摑(つか)めぬ限り、いくら毒突いても所詮空威張りに過ぎぬのは明らかである。そして裏の男は、私のそんな焦りを見透(みすか)したかのように、前にもまして帽子の広いつばの下の眼に暗い光を溜(た)め、こちらを凝視して止(や)まなかった。流しの窓の前に立たずとも、あの男が見ている、との感じは肌に伝わった。暑いのを我慢して南側の子供部屋で本を読んだりしていると、すぐ隣の居間に男の視線の気配を覚えた。そうなると、本を伏せてわざわざダイニングキチンまで出向き、あの男がいつもと同じ場所に立っているのを確かめるまで落着けなかった。
隣の家に電話をかけ、親に事情を話して看板をどうにかしてもらう、という手も考えた。少年の頭越しのそんな手段はフェアではないだろう、との意識も働いたし、その前に親を納得させる自信がない。もしも納得せぬまま、ただこちらとのいざこざを避けるために親が看板を除去してくれたとしても、相手の内にいかなる疑惑が芽生えるかは容易に想像がつく。あの家には頭のおかしな人間が住んでいる、そんな噂(うわさ)を立てられるのは恐ろしかった。
ある夕暮れ、それは妻が家に居る日だったが、日が沈んで外が少し涼しくなった頃、散歩に行くぞ、と裏の男に眼で告げて玄関を出た。家を離れて少し歩いた時、町会の掲示板のある角を曲って来る人影に気がついた。迷彩色のシャツをだらしなくジーパンの上に出し、俯(うつむ)きかげんに道の端をのろのろと近づいて来る。まだ育ち切らぬ柔らかな骨格と、無理に背伸びした身なりとのアンバランスな組合せがおかしかった。細い首に支えられた坊主頭がふと上り、またすぐに伏せられた。 A 隣の少年だ、と思うと同時に、私はほとんど無意識のように道の反対側に移って彼の前に立っていた。
「ちょっと」
声を掛けられた少年は怯(おび)えた表情で立ち止(どま)り、それが誰かわかると小さく頷(うなず)く仕種(しぐさ)で頭だけ下げ、私を避けて通り過ぎようとした。
「庭のプレハブは君の部屋だろう」
何か曖昧な母音を洩(も)らして彼は微(かす)かに頷いた。
「あそこに立てかけてあるのは、映画の看板かい」
細い眼が閉じられるほど細くなって、警戒の色が顔に浮かんだ。
「素敵な絵だけどさ、うちの台所の窓の真正面になるんだ。置いてあるだけなら、あのオジサンを横に移すか、裏返しにするか――――」
そこまで言いかけると、相手は肩を聳(そび)やかす身振りで歩き出そうとした。
「待ってくれよ、頼んでいるんだから」
肩越しに振り返る相手の顔は無表情に近かった。
「もしもさ――――」
追おうとした私を振り切って彼は急ぎもせずに離れて行く。
「ジジイ――――」
吐き捨てるように彼の俯いたまま低く叫ぶ声がはっきり聞えた。少年の姿が大野家の石の門に吸い込まれるまで、私はそこに立ったまま見送っていた。
ひどく後味の悪い夕刻の出来事を、私は妻に知られたくなかった。少年から見れば我が身が碌(ろく)な勤め先も持たぬジジイであることに間違いはなかったろうが、一応は礼を尽(つく)して頼んでいるつもりだったのだから、中学生の餓鬼にそれを無視され、罵られたのは身に応えた。B 身体の底を殴られたような厭(いや)な痛みを少しでも和らげるために、こちらの申し入れが理不尽なもので
あり、相手の反応は無理もなかったのだ、と考えてみようともした。謂(いわ)れもない内政干渉として彼が憤る気持ちもわからぬではなかった。しかしそれなら、彼は面を上げて私の申し入れを拒絶すればよかったのだ。所詮当方は雀の論理しか持ち合わせぬのだから、黙って引き下(さが)るしかないわけだ。その方が私もまだ救われたろう。
無視と捨台詞(すてぜりふ)にも似た罵言とは、彼が息子よりも遥(はる)かに歳(とし)若い少年だけに、やはり耐え難かった。
夜が更けてクーラーをつけた寝室に妻が引込んでしまった後も、私は一人居間のソファーに坐(すわ)り続けた。穏やかな鼾(いびき)が寝室の戸の隙間を洩(も)れて来るのを待ってから、大型の懐中電灯を手にしてダイニングキチンの窓に近づいた。もしや、という淡い期待を抱いて隣家の庭を窺(うかが)った。手前の木々の葉越しにプレハブ小屋の影がぼうと白く漂うだけで、庭は闇に包まれている。網戸に擦(こす)りつけるようにして懐中電灯の明(あか)りをともした。光の環(わ)の中に、きっと私を睨(にら)み返す男の顔が浮かんだ。闇に縁取られたその顔は肌に血の色さえ滲(にじ)ませ、昼間より一層生々し
かった。
「馬鹿奴(め)」
呟(つぶや)く声が身体にこもった。暗闇に立つ男を罵っているのか、夕刻の少年に怒りをぶつけているのか、自らを嘲っているのか、自分でもわからなかった。懐中電灯を手にしたまま素早く玄関を出た。土地ぎりぎりに建てた家の壁と塀の間を身体を斜めにしてすり抜ける。建築法がどうなっているのか識(し)らないが、もう少し肥(ふと)れば通ることの叶(かな)わぬ僅かな隙間だった。ランニングシャツ一枚の肩や腕にモルタル(注)のざらつきが痛かった。
東隣との低い生垣(いけがき)に突き当(あた)り、檜葉(ひば)の間を強引に割ってそこを跨(また)ぎ越し、我が家のブロック塀の端を迂回(うかい)すると再び大野家との生垣を掻(か)き分けて裏の庭へと踏み込んだ。乾いた小さな音がして枝が折れたようだったが、気にかける余裕はなかった。
繁みの下の暗がりで一息つき、足許(あしもと)から先に懐中電灯の光をさっと這(は)わせてすぐ消した。右手の母屋も正面のプレハブ小屋も、明りは消えて闇に沈んでいる。身を屈(かが)めたまま手探りに進み、地面に雑然と置かれている小さなベンチや傘立てや三輪車をよけて目指す小屋の横に出た。
男は見上げる高さでそこに平たく立っていた。光を当てなくとも顔の輪郭は夜空の下にぼんやり認められた。そんなただの板と、窓から見える男が同一人物とは到底信じ難かった。これではあの餓鬼に私の言うことが通じなかったとしても無理はない。案山子にとまった雀はこんな気分がするだろうか、と動悸(どうき)を抑えつつも苦笑した。
しかし濡(ぬ)れたように滑らかな板の表面に触れた時、指先に厭な違和感が走った。それがベニヤ板でも紙でもなく、硬質のプラスチックに似た物体だったからだ。思わず懐中電灯をつけてみずにはいられなかった。果(はた)して断面は分厚い白色で、裏側に光を差し入れるとそこには金属の補強材が縦横に渡されている。人物の描かれた表面処理がいかなるものかまでは咄嗟(とっさ)に摑めなかったが、それが単純に紙を貼りつけただけの代物ではないらしい、との想像はついた。雨に打たれて果無(はかな)く消えるどころか、これは土に埋められても腐ることのないしたたかな男だったのだ。
それを横にずらすか、道に面した壁に向きを変えて立てかけることは出来ぬものか、と持ち上げようとした。相手は根が生えたかの如(ごと)く動かない。これだけの厚みと大きさがあれば体重もかなりのものになるのだろうか。力の入れやすい手がかりを探ろうとして看板の縁を辿(たど)った指が何かに当った。太い針金だった。看板の左端にあけた穴を通して、針金は小屋の樋(とい)としっかり結ばれている。同じような右側の針金の先は、壁に突き出たボルトの頭に巻きついていた。その細工が左右に三つずつ、六ヵ所にわたって施されているのを確かめると、最早(もはや)男を動かすことは諦めざるを得なかった。夕暮れの少年の細めた眼を思い出し、理由はわからぬものの、C あ奴(やつ)はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった
(注)モルタル ――― セメントと砂を混ぜ、水で練り合わせたもの。タイルなどの接合や、外壁の塗装などに用いる。

本文では、同一の人物や事物が様々に呼び表されている。それらに着目した、後の問いに答えよ。

隣家の少年を示す表現に表れる「私」の心情の説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
  • 当初はあくまで他人として「裏の家の息子」と捉えているが、実際に遭遇した少年に未熟さを認めたのちには、「息子よりも遥かに歳若い少年」と表して我が子に向けるような親しみを抱いている。
  • 看板への対応を依頼する少年に礼を尽くそうとして「君」と声をかけたが、無礼な言葉と態度を向けられたことで感情的になり、「中学生の餓鬼」「あの餓鬼」と称して怒りを抑えられなくなっている。
  • 看板撤去の交渉をする相手として、少年とのやりとりの最中はつねに「君」と呼んで尊重する様子を見せる一方で、少年の外見や言動に対して内心では「中学生の餓鬼」「あの餓鬼」と侮っている。
  • 交渉をうまく進めるために「君」と声をかけたが、直接の接触によって我が身の老いを強く意識させられたことで、「中学生の餓鬼」「息子よりも遥かに歳若い少年」と称して彼の若さをうらやんでいる。
  • 当初は親の方を意識して「裏の家の息子」と表していたが、実際に遭遇したのちには少年を強く意識し、「中学生の餓鬼」「息子よりも遥かに歳若い少年」と彼の年頃を外見から判断しようとしている。

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