理容師の過去問
第42回
文化論及び理容技術理論 問1

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問題

第42回 理容師国家試験 文化論及び理容技術理論 問1 (訂正依頼・報告はこちら)

明治時代初期の髪型に関する次の記述のうち、誤っているものはどれか。
  • 明治4年に太政官布告により断髪令がだされ、断髪が奨励された。
  • 断髪は当時、散切りあるいは斬髪などといった。
  • 断髪令以降、「文明開化は頭髪から」という考え方が広まっていった。
  • 武士にとって髷(まげ)を切ることに抵抗はなかった。

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この過去問の解説 (3件)

01

明治時代初期の髪型や関連する歴史的背景に関する知識を問う問題です。

選択肢1. 明治4年に太政官布告により断髪令がだされ、断髪が奨励された。

この記述は正しいです。明治4年(1871年)に出された断髪令(散髪脱刀令)は、髷を切り、洋式の髪型を奨励するものでした。

選択肢2. 断髪は当時、散切りあるいは斬髪などといった。

この記述は正しいです。「散切り」や「斬髪」とは、髪を切ることを指し、断髪令によってこのような髪型が広まりました。

選択肢3. 断髪令以降、「文明開化は頭髪から」という考え方が広まっていった。

この記述は正しいです。断髪令は文明開化の象徴とされ、髪型の変化がその一環として位置づけられました。

選択肢4. 武士にとって髷(まげ)を切ることに抵抗はなかった。

この記述は誤りです。髷を切ることは、武士にとって深い文化的・社会的な意味を持ち、多くの武士にとっては大きな抵抗を伴うものでした。髷は伝統的な武士の象徴であり、これを切ることは、単なる髪型の変更以上の意味を持っていました。

まとめ

明治時代初期における髪型の変化は、日本の近代化の一環として重要な役割を果たしました。特に、髷を切ることは多くの武士にとっては大きな変革であり、文化的な抵抗を伴うものでした。

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02

正解は4です。

明治4年に太政官布告として「断髪令」が出されました。

正式名は「散髪脱刀令」で散髪(髷を結わない)脱刀(帯刀しない)は自由にして良いという法令です。

1は正しい説明です。

男性が髷を切って刈り込んだ頭は「散切り」や「斬髪」と呼ばれました。

散切りは「髷を切って髪を散らす」と言う意味があり「散髪」の散はこの散切りが語源のようです。

2も正しい説明です。

“ザンギリ(散切り)頭をたたいてみれば文明開化の音がする”と言う俗謡の通り、断髪は洋服とともに文明開化のシンボルとなっていました。

3も正しい説明です。

髷と帯刀は武士の魂であったのか断髪令の布告以降も髷を結う武士は少なくなかったようです。

断髪にはかなり抵抗があったようです。

4が誤った説明です。

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03

正解は4です。

1 .明治4年に太政官布告により断髪令がだされ、断髪が奨励された。

→断髪は特殊な階級(学者、医師など)に限られておりました。

2 .断髪は当時、散切りあるいは斬髪などといいました。

3 .断髪令以降、「文明開化は頭髪から」という考え方が広まっていった。

→天皇自ら散髪したことで、急速に普及し、文明開化の象徴となりました。

4 .武士にとって髷(まげ)を切ることに抵抗はなかった。

→髷は武士の魂とされ、切り落とすことにはかなり抵抗がありました。

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