保育士の過去問
平成24年(2012年)
養護原理 問138
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問題
保育士試験 平成24年(2012年) 養護原理 問138 (訂正依頼・報告はこちら)
次の文は、戦争や災害と慈善救済事業に関する記述である。( A )~( E )の語句が正しいものを○、誤ったものを×とした場合の正しい組み合わせを一つ選びなさい。
現在の児童福祉施設の源流となる民間慈善救済活動の先駆者たちは、公的制度が充実していなかった時代に、被災児童の救済のために多大な尽力をし、社会的使命を果たしてきた。
明治24(1891)年の濃尾地震を契機に、(A 糸賀一雄)は、わが国最初の(B 知的障害児)の施設である滝乃川学園の前身となる聖三一孤女学院を開設した。
(C 岡山孤児院)を創設し、(D 無制限収容)主義を提唱した石井十次は、明治37(1904)年には日露戦争による戦争孤児を、明治39(1906)年の東北地方の凶作の際には800余人の児童を受け入れた。
北川波津は、明治29(1896)年の東北三陸地方大津波の被災児を引き取ったことから、後に東京育成園となる施設を創設し、大正12(1923)年の(E 関東大震災)では300余人の被災児童らを受け入れた。
現在の児童福祉施設の源流となる民間慈善救済活動の先駆者たちは、公的制度が充実していなかった時代に、被災児童の救済のために多大な尽力をし、社会的使命を果たしてきた。
明治24(1891)年の濃尾地震を契機に、(A 糸賀一雄)は、わが国最初の(B 知的障害児)の施設である滝乃川学園の前身となる聖三一孤女学院を開設した。
(C 岡山孤児院)を創設し、(D 無制限収容)主義を提唱した石井十次は、明治37(1904)年には日露戦争による戦争孤児を、明治39(1906)年の東北地方の凶作の際には800余人の児童を受け入れた。
北川波津は、明治29(1896)年の東北三陸地方大津波の被災児を引き取ったことから、後に東京育成園となる施設を創設し、大正12(1923)年の(E 関東大震災)では300余人の被災児童らを受け入れた。
- A○ B○ C○ D× E○
- A○ B× C○ D○ E×
- A× B○ C○ D○ E○
- A× B○ C× D× E×
- A× B× C○ D○ E×
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この過去問の解説 (3件)
01
我が国最初の知的障がい児の施設を開設したのは石井亮一です。石井亮一は立教大出身でキリスト教との関係が深く、滝乃学園もキリスト教の信仰を根底としています。
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02
A 滝乃川学園の前身となる聖三一孤女学院を開設したのは、石井亮一です。糸賀一雄は、びわこ学園の設立者です。
B 適切です。滝乃川学園の前身となる聖三一孤女学院は日本で最初の知的障害児施設です。
C 適切です。石井十次は岡山孤児院を設立し、多くの戦争孤児を受け入れ養護しました。
D 適切です。石井十次が提唱した無制限収容主義とは、制限なく身寄りのない子どもを施設に受け入れ、養護するということです。
E 適切です。大正12(1923)年の9月1日に関東地方を震源とした関東大震災が起こりました。当時300人余りもの被災児童がおり、北川波津が設立した東京育成園となる施設で保護されました。
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03
Aが×・・・滝乃川学園の前身となる聖三一孤女学院を開設したのは、石井亮一です。糸賀一雄は滋賀県の知的障害児のための施設「近江学園」重症心身障害児施設「びわこ学園」の開設者です。
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