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公立学校教員の過去問 平成30年度(H31年度採用) 共通問題 問10

問題

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我が国の近世以降における教育に関する記述として適切なものは、次の1~5のうちのどれか。
   1 .
江戸幕府直轄の学問所である昌平坂学問所は、寛政12年には「聖堂御改正教育仕方」の規定を作り、仰高門内東舎で幕臣を対象に経書の講釈を行い、士庶を対象に御座敷講釈を行ったほか、稽古所にて寄宿生、通学生及び外来人を対象とする講義を行った。この規定は効果を上げ、稽古人が急増した。
   2 .
会津藩の藩校である日新館では、武術、朱子学を主流とする漢学のほか、和学、神道、算法、習字、習礼、天文、医学、洋学の学科が設けられた。開設当初は、教育面における身分階級制が厳しく藩士子弟のみが入学を許可されていたが、文政3年からは、歩卒及び町人の入学も許可されるようになった。
   3 .
岡山藩主池田光政は、領内郡中の手習所を統合し、全国的にも創立時期が、最も早いものの一つである藩営の庶民教育機関としての郷学である閑谷学校を開いた。領内の者のみが入学を許可され、生徒は年齢によって小生と大生とに区分けされた。小生は手習・素読を、大生は本格的な学習を中心に学んだ。
   4 .
儒学者広瀬淡窓が開いた漢学塾である咸宜園の入門者には武土、僧侶、医師、町人、農民など様々な者がいた。入門の後先は問わずに、年齢の高下によってクラスを決め、進級させる制度をとった。また、塾生の成績評価を厳格公正なものとするため、塾生全員の成績を月ごとに評定し、月旦評を公表した。
   5 .
蘭方医である緒方洪庵が開いた蘭学塾である適塾では、塾主である洪庵の直接授業は少なく、塾生たちの間で相互に学び合う教育形態がとられた。初学者は「ガランマチカ」と「セインタキス」の素読と講釈を受けてオランダ語の文法を修得した後、原書を読む会読段階に移った。塾生は常時ヅーフ・ハルマの蘭日辞書を頼りに勉強し会読に臨んだ。
( 公立学校教員採用選考試験(教職教養) 平成30年度(H31年度採用) 共通問題 問10 )
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この過去問の解説 (3件)

1
正答は5です。

1:江戸幕府直轄の昌平坂学問所は、寛政12年には「聖堂御改正教育仕方」の規定を作成したため、前半部分は正しいです。
昌平坂学問所では、以下のような講釈を実施していました。
・「稽古所」各藩の寄宿生や通学生などを対象
・「仰高門(ぎょうこうもん)」庶民も受講可能
・「御座敷(おざしき)」幕臣を対象
問題文の後半の「仰高門内東舎」と「御座敷」の対象が反対のため、1は誤りです。

2:日新館の前に創設された「稽古堂」は、農民や商人など庶民の子どもたちも学んでいました。
しかし文政3年からは庶民の入学は禁じられ、一定階級の藩士の子弟の入学が義務付けられたとされています。そのため、2は誤りです。

3:閑谷学校は、江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政に創建された、現存する世界最古の公立学校ですので、前半部分は正しいです。
地方の指導者を育成するために、武士のみならず庶民の子弟や他藩の子弟も学ぶことができたとされていますので、3は誤りです。

4:咸宜園(かんぎえん)は、江戸時代後期の儒学者である廣瀬淡窓が豊後・日田に開いた私塾です。
入門時に学歴・年齢・身分を問わず、すべての門下生を平等に教育し、塾生の成績を月ごとに評定する月旦評(げったんひょう)という制度もありました。
しかし年齢によってクラスを決めてはいなかったため、4は誤りです。

5:適塾に関する特徴と合致しているため、5は正答です。

付箋メモを残すことが出来ます。
0

正解はです。

1.誤りです。

 「学問所では、各藩の寄宿生や通学生などを対象にした「稽古所」講釈と、庶民も聴講できる「仰高門(ぎょうこうもん)」講釈のほか、幕臣を対象とした「御座敷(おざしき)」講釈が開かれていました」(国立公文書館 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/37.html より引用)

 この資料によると正しくは「仰高門」では庶民も聴講でき、「御座敷講釈」は幕臣を対象とした、となります。

2.誤りです。

 日新館は、藩士を教育し、人材を育成する目的で作られました。

 日新館の入学資格は、藩士の中でも上級の身分の藩士の子弟に限定されており、町人の入学が許可されることはありませんでした。

3.誤りです。

 閑谷学校は藩士だけでなく、広く門戸を開いて、庶民や他藩の子弟も受け入れていました。よって、「領内の者のみが入学を許可され」という部分が誤りです。 

4.誤りです。

 咸宜園は、入門時に学歴・年齢・身分を問わない「三奪法」により、平等に教育を施していたことが特徴となっています。

 入門時の年齢は問わないのですから、年齢の高下によってクラスを決めるということはありませんでした。

5.正しい記述です。

0
正答は5です。

1:昌平坂学問所では、仰高門内東舎は庶民、御座敷講釈は幕臣、稽古所は寄宿生や通学生を対象としていました。
仰高門内東舎と御座敷講釈の対象が逆になっているため、1は誤りです。

2:「日新館」の前身である「稽古堂」という藩校では、武士の子どもだけでなく、農民や商人の子たちも学ぶことができました。しかしながら、時代の変化の中で文政3年からは、歩卒や町人の入学は禁じられたとされています。
そのため、2は誤りです。

3:閑谷学校では、領内の者だけが入学を許可されていたわけではなく、領外からも武士や村役人等、様々な身分の人の入学を受け入れていたとされています。
幅広い人々に開かれた学校であったため、3は誤りです。

4:咸宜園では、入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できたようです。また、「三奪の法」によって、身分・出身・年齢などのバックグラウンドにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようになっていたようです。
年齢によってクラスを決めていたわけではないため、4は誤りです。

5:問題文の通りのため、5は正解です。

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