大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和4年度(2022年度)本試験
問2 (世界史B(第1問) 問2)
問題文
シーボルトは、1796年にドイツで生まれた。大学で医学に加え、a 解剖学・植物学・薬学などを学んだ彼は、1822年にオランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。翌年には、東南アジアにおけるオランダの拠点だった( ア )に到着し、そこで出島商館の医官として日本での勤務を命じられた。シーボルトが医官として勤務しながら、日本について博物学的研究を進めたことはよく知られている。
1829年に日本を離れたシーボルトは、オランダやドイツを拠点に膨大な著述を残した。そのうち、『日本』は1832年から1851年にかけて20分冊が刊行された大著で、日本とその近隣国に対する総合的研究の成果である。
図1は、同書に載せられた挿絵の一つで、日本に漂着した朝鮮人が囲碁に興ずる姿が描かれている。b 朝鮮王朝(李朝)では、明に倣って自国民の海外渡航を禁じていたが、海難事故によって日本や中国、琉球などに朝鮮人が漂流、漂着することがしばしばあった。長崎経由で本国に送還される朝鮮漂流民たちに、シーボルトは会い、朝鮮に関する情報をも手に入れていたのである。
次の図2中に示したa~dのうち、前の文章中の空欄( ア )の都市の位置として正しいものを、後のうちから一つ選べ。

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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和4年度(2022年度)本試験 問2(世界史B(第1問) 問2) (訂正依頼・報告はこちら)
シーボルトは、1796年にドイツで生まれた。大学で医学に加え、a 解剖学・植物学・薬学などを学んだ彼は、1822年にオランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。翌年には、東南アジアにおけるオランダの拠点だった( ア )に到着し、そこで出島商館の医官として日本での勤務を命じられた。シーボルトが医官として勤務しながら、日本について博物学的研究を進めたことはよく知られている。
1829年に日本を離れたシーボルトは、オランダやドイツを拠点に膨大な著述を残した。そのうち、『日本』は1832年から1851年にかけて20分冊が刊行された大著で、日本とその近隣国に対する総合的研究の成果である。
図1は、同書に載せられた挿絵の一つで、日本に漂着した朝鮮人が囲碁に興ずる姿が描かれている。b 朝鮮王朝(李朝)では、明に倣って自国民の海外渡航を禁じていたが、海難事故によって日本や中国、琉球などに朝鮮人が漂流、漂着することがしばしばあった。長崎経由で本国に送還される朝鮮漂流民たちに、シーボルトは会い、朝鮮に関する情報をも手に入れていたのである。
次の図2中に示したa~dのうち、前の文章中の空欄( ア )の都市の位置として正しいものを、後のうちから一つ選べ。

- a
- b
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この過去問の解説 (1件)
01
この問題は、シーボルトが日本に来る前に立ち寄った「オランダの拠点」がどこかを地図から読み取るものです。
文章を整理すると、
・シーボルトは1823年にオランダ領東インドの拠点に到着したとあります。
・ここで言う「オランダ領東インド」は、現在のインドネシアを指します。
・その中でも、オランダの中心的拠点だったのはバタヴィア(現在のジャカルタ)です。
つまり、空欄(ア)には「バタヴィア」が入ります。
次に、図2の地図を確認します。
a:現在のベトナム付近(ホイアンなど)
b:現在のインドネシア・ジャワ島北岸(ジャカルタ)
c:現在の中国・広州
d:現在のフィリピン(マニラ)
バタヴィア=現在のジャカルタはbの地点です。
誤りです。
正しいです。
誤りです。
誤りです。
シーボルトが到着したオランダの拠点「バタヴィア」は、図2中のbにあたります。
この都市を経て彼は長崎の出島に向かい、日本での研究を開始しました。
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