大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)本試験
問2 (世界史B(第1問) 問2)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)本試験 問2(世界史B(第1問) 問2) (訂正依頼・報告はこちら)

世界史上、様々な地域や時代に見られた体制と制度について述べた次の文章を読み、後の問いに答えよ。

中国では、王や皇帝の一族を、制度上どのように位置づけるか、たびたび議論された。次の資料1・2は、始皇帝の御前で、周の統治制度の是非をめぐって行われた議論について記した『史記』の一節、資料3は、清の初めの史論『読通鑑論(どくつがんろん)』の一節の概要である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)

資料1
李斯は、「周王朝を開いた文王と武王は、一族や功臣の多くに、封土を分け与えて諸侯としましたが、その後疎遠となって攻撃し合い、周王は制御できませんでした。今天下は陛下のお力により、皆中央から官僚を派遣するようになりました。一族や功臣は制御しやすいように、国家に収められる租税によって厚く手当てするのが、太平をもたらす方策です。諸侯を置くのは良くありません」と、言った。始皇帝は、「天下は諸侯や王がいたため、争乱に苦しんだ。李斯の意見が正しい」と、言った。

資料2
博士の一人が進み出て、「私が聞くところによると、周王朝が長く続いたのは、一族や功臣に封土を分け与えて諸侯とし、王室を補佐する枝葉としたためです。今陛下は天下を領有していますが、一族は一介の庶民にすぎません。反逆を企てる臣下が現れた場合、帝室を補佐する者もいないのに、どうして救い合うことができるでしょうか」と、述べた。

資料3
西晋では一族を王として、肉親同士が争い合った。天下の兵は皆皇帝に統率されていたのに、西晋が諸王に兵を授け、争乱の火種としたのはなぜか。魏が一族をないがしろにし、実権を握る臣下がそれに乗じたのに懲りたためである。

中国では、資料1・2と同様の議論がその後も見られる。例えば、資料3では、臣下であった( ア )に魏が皇帝の位を奪われたことに鑑みて採られた方策の弊害について述べる。しかし、別の箇所では、わずか三代で滅びた魏に対して、晋が江南に逃れた後、百年存続したことを挙げて、その方策の「優劣は明らかである」とも述べる。
また、a 明の初めの官僚には、一族の諸王を目下の重大な問題としてとらえ、「古を引いて今を証する」と述べながら、前漢と西晋の先例を挙げて警鐘を鳴らす者もいた
中国では、現実の問題に対処するため、様々な権力を一族に分与することもあった。ただし、それが後に争乱の火種となり、分権の弊害が現れることもあった。このように、一族に対する分権は、利害両面のある「諸刃の剣」であった。

文章中の空欄( ア )に入れる人物の名と、資料3で説明されている争乱の名との組合せとして正しいものを、次のうちから一つ選べ。
  • ア ― 呉三桂  争乱の名 ― 三藩の乱
  • ア ― 呉三桂  争乱の名 ― 八王の乱
  • ア ― 司馬炎  争乱の名 ― 三藩の乱
  • ア ― 司馬炎  争乱の名 ― 八王の乱

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この過去問の解説 (1件)

01

正しい組合せは、
「ア―司馬炎 争乱の名―八王の乱」 です。

 

司馬炎は魏の臣下から皇帝位を奪って西晋(西晉)を建てました。

その反省から、彼は一族の諸王に軍権を分与しましたが、これが後に八王の乱(290〜306年)の引き金となりました。

選択肢1. ア ― 呉三桂  争乱の名 ― 三藩の乱

呉三桂は清初の将軍で、1673〜1681年の三藩の乱を起こしました。

魏・晋とは時代がずれます。

選択肢2. ア ― 呉三桂  争乱の名 ― 八王の乱

呉三桂は八王の乱に関わっていません。

八王の乱は西晋の諸王どうしの内戦です。

選択肢3. ア ― 司馬炎  争乱の名 ― 三藩の乱

司馬炎の治世は3世紀末です。

三藩の乱は17世紀の清代なので、対応しません。

選択肢4. ア ― 司馬炎  争乱の名 ― 八王の乱

司馬炎が諸王に軍権を与えた結果、一族内での権力争いが激化し、八王の乱となりました。

資料3の指摘と一致します。

まとめ

魏が家臣の司馬炎に簒奪されたことを教訓に、西晋は「一族分権」策を取りました。

分権は王権簒奪の抑止という利点を狙いましたが、逆に内乱の種になりました。

後世の明・清でも、「一族に力を持たせるかどうか」は安定と混乱の両刃の剣として繰り返し議論されています。

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