大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問2 (世界史B(第1問) 問2)

このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。

問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問2(世界史B(第1問) 問2) (訂正依頼・報告はこちら)

世界史上の宗教の役割について述べた次の文章Aを読み、後の問いに答えよ。

A ある美術館で開催している「清朝展」を見学に訪れた先生と生徒たちが、会話をしている。

先生:ここからは、清の時代の絵画が展示されています。
山本:図1は、私が知っている中国絵画とは少し違うような気がします。
先生:良いところに気が付きましたね。図1の作者はヨーロッパ出身の( ア )です。北京に残る円明園を設計したことでも知られています。
山本:解説によると、馬の乗り手は、( イ )の出身で清に投降した人物のようです。
杉田:( イ )は、チベット仏教の( ウ )の地位をめぐって清と対抗していたのでしたね。
先生:そうですね。清は最終的に彼らを滅ぼして東トルキスタンを領有し、勢力を拡大させました。関連する展示を見てみましょうか。図2では、仏画としてある人物が描かれています。せっかくですから、解説は見ずに誰なのかを考えてみましょう。
杉田:顔の横に剣が見えますね。輪も持っているようです。この人はダライ=ラマでしょうか。
先生:いいえ、この人物は、これらからイメージされる文殊菩薩の化身として、ダライ=ラマをはじめとするチベット仏教の高僧の教えを尊びながら、政治を行っていました。( イ )を滅ぼしたのもこの人物の時代でした。
池田:そうすると、図2は、チベット仏教の( ウ )として、( エ )を描いているのですね。
先生:そのとおりです。
池田:清が、多様な地域と関わるようになったことが分かりました。藩部の諸地域は、現在の中国にも受け継がれたのでしょうか。
先生:必ずしもそうとは言えず、a 地域によって関係のあり方も異なります

文章中の空欄ウに入れる語と、空欄エに入れる人物の名との組合せとして正しいものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
問題文の画像
  • ウ ― 保護者  エ― 乾隆帝
  • ウ ― 保護者  エ― 雍正帝
  • ウ ― 指導者  エ― 乾隆帝
  • ウ ― 指導者  エ― 雍正帝

次の問題へ

正解!素晴らしいです

残念...

この過去問の解説 (2件)

01

清朝は中国本部だけでなく、モンゴル・チベット・東トルキスタン(新疆)などの周辺地域を支配に組み入れました。その際に大きな役割を果たしたのがチベット仏教です。

清の皇帝は、自らを文殊菩薩の化身であり、チベット仏教の保護者(護法者)であると位置づけ、高僧を尊重しつつ統治の正当性を高めました。

特に乾隆帝の時代に、清はジュンガルを滅ぼして東トルキスタンを領有し、チベット仏教美術を保護するなど、宗教と政治を結びつけた支配を展開しました。

 この流れを踏まえると、空欄ウは保護者、空欄エは乾隆帝が正答になります。

選択肢1. ウ ― 保護者  エ― 乾隆帝

乾隆帝は「文殊菩薩の化身」とされ、チベット仏教の保護者を自任しました。

選択肢2. ウ ― 保護者  エ― 雍正帝

雍正帝はジュンガル討伐を開始しましたが、滅ぼしたのは乾隆帝です。人物が誤りです。

 

選択肢3. ウ ― 指導者  エ― 乾隆帝

乾隆帝はチベット仏教を尊重しましたが、自らを「指導者」とはせず、「保護者」として振る舞いました。用語が不適です。

選択肢4. ウ ― 指導者  エ― 雍正帝

先述した通り、人物も用語も誤りです。

参考になった数0

02

正しい組み合わせは、「ウー保護者 エー乾隆帝」です。

 

【検討】

チベット仏教での皇帝の立場=「保護者」

清朝皇帝は自らを文殊菩薩(知恵の仏)の化身と位置づけ、高僧の教えを尊重しつつ政治を行いました

ダライ=ラマやパンチェン=ラマのような宗教上の指導者ではなく、教団や信徒を支え導く“庇護者・後援者”の役割を担いました。
→ 空欄ウは保護者が適切

 

「イ」を滅ぼした皇帝=乾隆帝

(イ)に入るジュンガル部は東トルキスタン(現・新疆)を支配し清と対立しました。

決定的な征服(1755–59年)を指揮したのは乾隆帝です。

乾隆帝はチベット仏教への帰依を強調し、文殊菩薩の化身として描かれた図像が数多く制作されました。
→ 空欄エは乾隆帝

選択肢1. ウ ― 保護者  エ― 乾隆帝

正しい組み合わせです。

選択肢2. ウ ― 保護者  エ― 雍正帝

誤りです。

選択肢3. ウ ― 指導者  エ― 乾隆帝

誤りです。

選択肢4. ウ ― 指導者  エ― 雍正帝

誤りです。

参考になった数0