大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和4年度(2022年度)追・再試験
問11 (第1問(評論) 問11)
問題文
言葉のエコノミーの空間に文字が持ち込んだ重要なことの一つは、言葉が声以外の表現媒体を持つことによって、言葉の一次的な媒体であった「声」と二次的な媒体である「文字」との間に時間的・空間的な「へだたり」が持ち込まれたということである。
文字に書かれることで、言葉は「声」と「文字」とに分裂する。この時、声の方はしばしば言葉を発する身体に直接属する「内的」なものとして位置づけられ、他方、文字の方はそのような「内面」から距離化された「表層」に位置づけられる。だが、ここで注意したいのは、A 声としての言葉もすでに、その内部に文字と同じようなへだたりをもっていたということだ。
このことは、「声」と「音」との区別を考えてみると分かりやすい。
「音声」という言葉があるように、普通言う意味での人間の声は音である。では、声である音と声でない音とはどう違うのか。音声学的な音の特性によって区別することも可能である。たとえば、楽器の音の音波形には完全な周期性が見られるが、人間の声にはそのような完全な周期性は見られない。ヴィブラートによる声のソウア ショクは、人間の声のこの特性を利用している。だが、さしあたりそのような音声学的な特性とは別に考えるとすれば、私たちは普通、人間のような生物の、心のような内的なものにかかわる意味をともなって発せられる音を「声」と呼んで、物や体が擦れ合ったりぶつかったりして出る「音」から区別しているのだと言うことができる。
もう少し抽象的な言い方をすれば、声には「内部(内面)」があるが、音には「内部(内面)」がない。「声としての音」の背後には、声としての音にはイ カンゲンされない「何か」が存在しており、声はその「何か」を表現する音であることで「言葉」になる。音としての声が表現するこの「何か」は、しばしば言葉を発する人間の身体の内部や心の内部にあるものと考えられる。この時、身体に発する音は、身体や心の内部にあるものを表現するメディアであることで「声」になる。あるいは物理学者ホーキング(注1)の音声合成装置から発する「声」のように、人の身体から直接発したのではない音でも、人に発する意志や意味を表現することによって声になるのである。
声は言葉のメディア(あるいは意味のメディア)であることによって、ただの音とは異なる内的なへだたりを自らの内に孕(はら)む。声の向こう側にある「何か」は、必ずしも近代的な意味での「主体」や「自我」である必要はない。人間の歴史のなかで、人は時に神やウ ソセンの言葉を語り、部族や身分の言葉を語ってきた。このような場合、人は私たちが知るような「内面」として語っているのではない。人は自らを媒介として「誰か」の言葉を語る。B 「私」とは、その「誰か」が取りうる一つの位相に過ぎない。このことは、声やそれを発する身体もまた、語られる言葉にとっては一つのメディアであることを意味している。
話される言葉の向こうに居る者が誰であるのかは、言葉のエコノミーの構造を決定する重要な条件である。近代の社会はこの「誰か」を、もっぱら語る身体の内部にある「私」へと帰属させるようにして、言葉のエコノミーの空間を組織してきた。
声を電気的に複製し、再生し、転送するメディアが現(あら)われるのは、言葉、とりわけ声を人々の内部へとつなぎとめるこの近代という時代の、十九世紀も後半になってからのことである。電話やレコードのように音声を電気的に再生し、伝達し、蓄積する一群の技術が発明・開発されると、これらの技術を利用した複製メディアの中に、肉体から切り離されて複製された「声」が現われる。
電気的なメディアによる声の再生、蓄積、転送は、声としての言葉とそれを発話する人間の身体とを時間的・空間的に切り離す。電話やラジオの場合、話される言葉は、話されるとほぼ同時に、話す身体とは遠く離れた場所で再生される。この時、電話やラジオは、話す身体と話される言葉を空間的に切り離している。他方、レコード(注2)やテープ、CDの場合、声としての言葉はそれを発する身体から時間的にも切り離され、任意の時間に任意の場所で、話し手や歌い手の意思にかかわりなく再生される。そこでは声は、ちょうど文字のように、それを発する身体から空間的にも時間的にも切り離されて生産され、流通し、消費される。
電気的な複製メディアの初期の発明者たちは、これらのメディアが言葉のエコノミーにもたらすこの時間的・空間的なへだたりを、直観的に理解していたように思われる。電話を意味する「telephone」は、「遠い」teleと「音」phoneが結びつくところに成立している。また、初期のレコードの発明者たちが彼らの発明に与えたフォノグラフやグラフォフォン、グラモフォン等の名は、「音」phoneと「文字(書)」graph, gramを組み合わせて造語されている。これらの名は、声を身体から遠く引き離し、かつて文字がそうしたように、声としての言葉を蓄積し、転送し、再現することを可能にするという、これらのメディアの原理的なあり方を表現している。
電気的な複製メディアの中の声は「書かれた声」、「遠い声」である。それらは、その所記性(注3)や遠隔性によって、文字が言葉のエコノミーに持ち込んだ声と言葉の間のへだたりと同じようなへだたりを、複製される声とその声を発した身体の間に持ち込むのである。
電気的なメディアの中の「書かれた声」「遠い声」は、言葉のエコノミーの空間に何をもたらしているのだろうか。
かつて文字というメディアは、「声でない言葉」をつくり出すことで、言葉から声を引き剥がし、やがてそれを人びとの内部(内面)に帰属させていった。電気的な複製メディアは、声としての言葉を語り・歌う身体から切り離し、引き剥がすことによって、声が身体にとって外在的な位相をとることを可能にする。
すでに述べたように、声としての言葉はそもそも、それが表現する「内部」にたいして外在的な「音」としての位相をもっていた。だから、より精確に言えば、電気的な複製メディアは声を、それを語り・歌う身体から時間的・空間的に切り離すことで、言葉としての声が内的に孕むあのへだたりを顕在化するのだというべきだろう。
電気的な複製メディアにおいて、再生される声とそれを語る身体は相互に外在しあう。この時、声と身体は、それまで互いを結びつけてきた言葉のエコノミーから束(つか)の間解放される。たとえば筆者たちがインタヴューした「電話中毒」の大学生の一人は、深夜の長電話の最中に自分が「声だけになっている」ような感覚をもつことがあると語っていた。また、精神科医の大平健が報告する事例において、ある女性は無言電話(注4)における他者との関係の感覚を、エレクトロニクス(注5)の技術と機械とを結びつけた言葉である「メカトロ」という機械的な隠喩によって語っている。このような身体感覚(あるいは脱―身体感覚)は、語る身体と語られる声とが相互に外在化する電気的な複製メディアのなかの空間で、語り手の主体性が身体にたいして外在したり、身体から切り離された声の側に投射されたりすることを示している
レコードやCDのように、時に様々な加工をほどこされた声を蓄積し、再生するメディアや、ラジオ番組やテレビ番組のような組織的に編集された「作品」のなかの声の場合、事情はより複雑である。これらのメディアの中で、声はそれを語り・歌う者を主体とする表現という形をとる場合もある。だが、そのような表現はつねに、語り・歌う者以外の多くの人々による、声を対象とした様々な操作とともにある。そこでは声は主体としてではなく客体として対象化されており、さらに、そのようにして加工、編集された声は「商品」として多くの人々の前に現われ、消費される。このような場合、声はもはや特定の身体や主体に帰属するとは言いがたい。そこでは声は、語られ・歌われた言葉の生産、流通、消費をめぐる社会的な制度と技術の中に深く埋め込まれており、そのような制度と技術に支えられ、特定の人称への帰属から切り離さ
れ、テクスト(注6)のように多様な人々の中へと開かれる。そして時にはメディアの中のアイドルやDJたちのように、言葉を語り・歌う者の側が、生産され流通する声に帰属する者として現われたりもするのである。
電気的なメディアの中の声は、それを発した身体から時間的・空間的に切り離された声である。C それは時に声を発した身体の側を自らに帰属させて響き、また時には特定の人称から解き放たれて囁(ささや)きかける。電気的なメディアの中の声を聞く時、人が経験するのは身体に外在するこのような声の経験であり、それらの声が可能にする関係の構造の変容である。
(若林 幹夫(わかばやし みきお)「メディアの中の声」による)
注1 ホーキング ―― イギリスの理論物理学者(1942 ― 2018)。難病により歩行や発声が困難であったため、補助器具を使っていた。
注2 レコードやテープ、CD ―― 音声や音楽を録音して再生するためのメディア。
注3 所記性 ―― 書き記されていることのうち、意味内容としての性質。
注4 無言電話 ―― 電話に出ても発信者が無言のままでいること。かつての電話には番号通知機能がなかった。
注5 エレクトロニクス ―― 通信・計測・情報処理などに関する学問。電子工学。
注6 テクスト ―― 文字で書かれたもの。文章や書物。
授業で「メディアの中の声」の本文を読んだNさんは、次のような【文章】を書いた。その後、Nさんは【文章】を読み直し、語句や表現を修正することにした。このことについて、後の問いに答えよ。
【文章】
本文では、「電気的なメディア」によって、声とそれを発する人間の身体とが切り離されるということが述べられていた。a 本文を読んで気づいたことがあるので、そのことを書きたい。
たとえば、映画の吹き替え版やアニメなどが考えられる。声を発する本人の姿が見えないにもかかわらず、外国映画の俳優やアニメのキャラクター自身がその声を発しているかのように受け止めている。つまり、別の存在が発した声であっても、私たちは違和感なく聞いているのだ。
b その上、私たちは声を聞いたときに、そこに実在する誰かがいるかのように考えてしまうことがある。たとえば、電話やボイスメッセージなどで家族や友人の声を聞くと、そこにその人がいるように感じて安心することがある。声と身体は一体化していて、切り離されているとは言い切れない面もあるのではないか。
さらに考えてみると、その声は間違いなく家族や友人の声だと決定することはできないかもしれない。c 要するに声によって個人を特定することは不可能なのではないだろうか。私は電話で母と姉とを取り違えてしまったことがある。また、録音した私自身の声を聞いたことがあるが、d ふつうにそれが自分の声だとわかっていなければ誰の声か判断できなかったに違いない。
下線部dについて、【文章】の内容を踏まえて、適切な表現に修正したい。修正する表現として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
d 「ふつうに」
このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。
問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和4年度(2022年度)追・再試験 問11(第1問(評論) 問11) (訂正依頼・報告はこちら)
言葉のエコノミーの空間に文字が持ち込んだ重要なことの一つは、言葉が声以外の表現媒体を持つことによって、言葉の一次的な媒体であった「声」と二次的な媒体である「文字」との間に時間的・空間的な「へだたり」が持ち込まれたということである。
文字に書かれることで、言葉は「声」と「文字」とに分裂する。この時、声の方はしばしば言葉を発する身体に直接属する「内的」なものとして位置づけられ、他方、文字の方はそのような「内面」から距離化された「表層」に位置づけられる。だが、ここで注意したいのは、A 声としての言葉もすでに、その内部に文字と同じようなへだたりをもっていたということだ。
このことは、「声」と「音」との区別を考えてみると分かりやすい。
「音声」という言葉があるように、普通言う意味での人間の声は音である。では、声である音と声でない音とはどう違うのか。音声学的な音の特性によって区別することも可能である。たとえば、楽器の音の音波形には完全な周期性が見られるが、人間の声にはそのような完全な周期性は見られない。ヴィブラートによる声のソウア ショクは、人間の声のこの特性を利用している。だが、さしあたりそのような音声学的な特性とは別に考えるとすれば、私たちは普通、人間のような生物の、心のような内的なものにかかわる意味をともなって発せられる音を「声」と呼んで、物や体が擦れ合ったりぶつかったりして出る「音」から区別しているのだと言うことができる。
もう少し抽象的な言い方をすれば、声には「内部(内面)」があるが、音には「内部(内面)」がない。「声としての音」の背後には、声としての音にはイ カンゲンされない「何か」が存在しており、声はその「何か」を表現する音であることで「言葉」になる。音としての声が表現するこの「何か」は、しばしば言葉を発する人間の身体の内部や心の内部にあるものと考えられる。この時、身体に発する音は、身体や心の内部にあるものを表現するメディアであることで「声」になる。あるいは物理学者ホーキング(注1)の音声合成装置から発する「声」のように、人の身体から直接発したのではない音でも、人に発する意志や意味を表現することによって声になるのである。
声は言葉のメディア(あるいは意味のメディア)であることによって、ただの音とは異なる内的なへだたりを自らの内に孕(はら)む。声の向こう側にある「何か」は、必ずしも近代的な意味での「主体」や「自我」である必要はない。人間の歴史のなかで、人は時に神やウ ソセンの言葉を語り、部族や身分の言葉を語ってきた。このような場合、人は私たちが知るような「内面」として語っているのではない。人は自らを媒介として「誰か」の言葉を語る。B 「私」とは、その「誰か」が取りうる一つの位相に過ぎない。このことは、声やそれを発する身体もまた、語られる言葉にとっては一つのメディアであることを意味している。
話される言葉の向こうに居る者が誰であるのかは、言葉のエコノミーの構造を決定する重要な条件である。近代の社会はこの「誰か」を、もっぱら語る身体の内部にある「私」へと帰属させるようにして、言葉のエコノミーの空間を組織してきた。
声を電気的に複製し、再生し、転送するメディアが現(あら)われるのは、言葉、とりわけ声を人々の内部へとつなぎとめるこの近代という時代の、十九世紀も後半になってからのことである。電話やレコードのように音声を電気的に再生し、伝達し、蓄積する一群の技術が発明・開発されると、これらの技術を利用した複製メディアの中に、肉体から切り離されて複製された「声」が現われる。
電気的なメディアによる声の再生、蓄積、転送は、声としての言葉とそれを発話する人間の身体とを時間的・空間的に切り離す。電話やラジオの場合、話される言葉は、話されるとほぼ同時に、話す身体とは遠く離れた場所で再生される。この時、電話やラジオは、話す身体と話される言葉を空間的に切り離している。他方、レコード(注2)やテープ、CDの場合、声としての言葉はそれを発する身体から時間的にも切り離され、任意の時間に任意の場所で、話し手や歌い手の意思にかかわりなく再生される。そこでは声は、ちょうど文字のように、それを発する身体から空間的にも時間的にも切り離されて生産され、流通し、消費される。
電気的な複製メディアの初期の発明者たちは、これらのメディアが言葉のエコノミーにもたらすこの時間的・空間的なへだたりを、直観的に理解していたように思われる。電話を意味する「telephone」は、「遠い」teleと「音」phoneが結びつくところに成立している。また、初期のレコードの発明者たちが彼らの発明に与えたフォノグラフやグラフォフォン、グラモフォン等の名は、「音」phoneと「文字(書)」graph, gramを組み合わせて造語されている。これらの名は、声を身体から遠く引き離し、かつて文字がそうしたように、声としての言葉を蓄積し、転送し、再現することを可能にするという、これらのメディアの原理的なあり方を表現している。
電気的な複製メディアの中の声は「書かれた声」、「遠い声」である。それらは、その所記性(注3)や遠隔性によって、文字が言葉のエコノミーに持ち込んだ声と言葉の間のへだたりと同じようなへだたりを、複製される声とその声を発した身体の間に持ち込むのである。
電気的なメディアの中の「書かれた声」「遠い声」は、言葉のエコノミーの空間に何をもたらしているのだろうか。
かつて文字というメディアは、「声でない言葉」をつくり出すことで、言葉から声を引き剥がし、やがてそれを人びとの内部(内面)に帰属させていった。電気的な複製メディアは、声としての言葉を語り・歌う身体から切り離し、引き剥がすことによって、声が身体にとって外在的な位相をとることを可能にする。
すでに述べたように、声としての言葉はそもそも、それが表現する「内部」にたいして外在的な「音」としての位相をもっていた。だから、より精確に言えば、電気的な複製メディアは声を、それを語り・歌う身体から時間的・空間的に切り離すことで、言葉としての声が内的に孕むあのへだたりを顕在化するのだというべきだろう。
電気的な複製メディアにおいて、再生される声とそれを語る身体は相互に外在しあう。この時、声と身体は、それまで互いを結びつけてきた言葉のエコノミーから束(つか)の間解放される。たとえば筆者たちがインタヴューした「電話中毒」の大学生の一人は、深夜の長電話の最中に自分が「声だけになっている」ような感覚をもつことがあると語っていた。また、精神科医の大平健が報告する事例において、ある女性は無言電話(注4)における他者との関係の感覚を、エレクトロニクス(注5)の技術と機械とを結びつけた言葉である「メカトロ」という機械的な隠喩によって語っている。このような身体感覚(あるいは脱―身体感覚)は、語る身体と語られる声とが相互に外在化する電気的な複製メディアのなかの空間で、語り手の主体性が身体にたいして外在したり、身体から切り離された声の側に投射されたりすることを示している
レコードやCDのように、時に様々な加工をほどこされた声を蓄積し、再生するメディアや、ラジオ番組やテレビ番組のような組織的に編集された「作品」のなかの声の場合、事情はより複雑である。これらのメディアの中で、声はそれを語り・歌う者を主体とする表現という形をとる場合もある。だが、そのような表現はつねに、語り・歌う者以外の多くの人々による、声を対象とした様々な操作とともにある。そこでは声は主体としてではなく客体として対象化されており、さらに、そのようにして加工、編集された声は「商品」として多くの人々の前に現われ、消費される。このような場合、声はもはや特定の身体や主体に帰属するとは言いがたい。そこでは声は、語られ・歌われた言葉の生産、流通、消費をめぐる社会的な制度と技術の中に深く埋め込まれており、そのような制度と技術に支えられ、特定の人称への帰属から切り離さ
れ、テクスト(注6)のように多様な人々の中へと開かれる。そして時にはメディアの中のアイドルやDJたちのように、言葉を語り・歌う者の側が、生産され流通する声に帰属する者として現われたりもするのである。
電気的なメディアの中の声は、それを発した身体から時間的・空間的に切り離された声である。C それは時に声を発した身体の側を自らに帰属させて響き、また時には特定の人称から解き放たれて囁(ささや)きかける。電気的なメディアの中の声を聞く時、人が経験するのは身体に外在するこのような声の経験であり、それらの声が可能にする関係の構造の変容である。
(若林 幹夫(わかばやし みきお)「メディアの中の声」による)
注1 ホーキング ―― イギリスの理論物理学者(1942 ― 2018)。難病により歩行や発声が困難であったため、補助器具を使っていた。
注2 レコードやテープ、CD ―― 音声や音楽を録音して再生するためのメディア。
注3 所記性 ―― 書き記されていることのうち、意味内容としての性質。
注4 無言電話 ―― 電話に出ても発信者が無言のままでいること。かつての電話には番号通知機能がなかった。
注5 エレクトロニクス ―― 通信・計測・情報処理などに関する学問。電子工学。
注6 テクスト ―― 文字で書かれたもの。文章や書物。
授業で「メディアの中の声」の本文を読んだNさんは、次のような【文章】を書いた。その後、Nさんは【文章】を読み直し、語句や表現を修正することにした。このことについて、後の問いに答えよ。
【文章】
本文では、「電気的なメディア」によって、声とそれを発する人間の身体とが切り離されるということが述べられていた。a 本文を読んで気づいたことがあるので、そのことを書きたい。
たとえば、映画の吹き替え版やアニメなどが考えられる。声を発する本人の姿が見えないにもかかわらず、外国映画の俳優やアニメのキャラクター自身がその声を発しているかのように受け止めている。つまり、別の存在が発した声であっても、私たちは違和感なく聞いているのだ。
b その上、私たちは声を聞いたときに、そこに実在する誰かがいるかのように考えてしまうことがある。たとえば、電話やボイスメッセージなどで家族や友人の声を聞くと、そこにその人がいるように感じて安心することがある。声と身体は一体化していて、切り離されているとは言い切れない面もあるのではないか。
さらに考えてみると、その声は間違いなく家族や友人の声だと決定することはできないかもしれない。c 要するに声によって個人を特定することは不可能なのではないだろうか。私は電話で母と姉とを取り違えてしまったことがある。また、録音した私自身の声を聞いたことがあるが、d ふつうにそれが自分の声だとわかっていなければ誰の声か判断できなかったに違いない。
下線部dについて、【文章】の内容を踏まえて、適切な表現に修正したい。修正する表現として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
d 「ふつうに」
- まさか
- もし
- あたかも
- おそらく
正解!素晴らしいです
残念...
この過去問の解説
前の問題(問10)へ
令和4年度(2022年度)追・再試験 問題一覧
次の問題(問12)へ