大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問10 (第1問(評論) 問10)
問題文
【文章Ⅰ】
寝返りさえ自らままならなかった子規にとっては、室内にさまざまなものを置き、それをながめることが楽しみだった。そして、ガラス障子のむこうに見える庭の植物や空を見ることが慰めだった。味覚のほかは視覚こそが子規の自身の存在を確認する感覚だった。子規は、視覚の人だったともいえる。障子の紙をガラスに入れ替えることで、A 子規は季節や日々の移り変わりを楽しむことができた。
『墨汁一滴』(注1)の3月12日には「不平十ケ条(じっかじょう)」として、「板ガラスの日本で出来ぬ不平」と書いている。この不平を述べている1901(明治34)年、たしかに日本では板ガラスは製造していなかったようだ。石井研堂(注2)の『増訂明治事物起原』には、「(明治)36年、原料も総(すべ)て本邦のものにて、完全なる板硝子(いたがらす)を製出せり。大正3年、欧州大戦の影響、本邦の輸入硝子は其(その)船便を失ふ、是(ここ)に於(おい)て、旭(あさひ)硝子製造会社等の製品が、漸(ようや)く用ひらるることとなり、わが板硝子界は、大発展を遂ぐるに至れり」とある。
これによると板ガラスの製造が日本で始まったのは、1903年ということになる。子規が不平を述べた2年後である。してみれば、虚子(注3)のすすめで子規の書斎(病室)に入れられた「ガラス障子」は、輸入品だったのだろう。高価なものであったと思われる。高価であってもガラス障子にすることで、子規は、庭の植物に季節の移ろいを見ることができ、青空や雨をながめることができるようになった。ほとんど寝たきりで身体を動かすことができなくなり、絶望的な気分の中で自殺することも頭によぎっていた子規。彼の書斎(病室)は、ガラス障子によって「見ることのできる装置(室内)」あるいは「見るための装置(室内)」へと変容したのである。
映画研究者のアン・フリードバーグ(注4)は、『ヴァーチャル・ウインドウ』のアボウトウで、「窓」は「フレーム」であり「スクリーン」でもあるといっている。
窓はフレームであるとともに、プロセニアム〔舞台と客席を区切る額縁状の部分〕でもある。窓の縁〔エッジ〕が、風景を切り取る。窓は外界を二次元の平面へと変える。つまり、窓はスクリーンとなる。窓と同様に、スクリーンは平面であると同時にフレーム ――― 映像〔イメージ〕が投影される反射面であり、視界を制限するフレーム ――― でもある。スクリーンは建築のひとつの構成要素であり、新しいやり方で、壁の通風を演出する。
子規の書斎は、ガラス障子によるプロセニアムがつくられたのであり、それは外界を二次元に変えるスクリーンでありフレームとなったのである。B ガラス障子は「視覚装置」だといえる。
子規の書斎(病室)の障子をガラス障子にすることで、その室内は「視覚装置」となったわけだが、実のところ、外界をながめることのできる「窓」は、視覚装置として、建築・住宅にもっとも重要な要素としてある。
建築家のル・コルビュジエは、いわば視覚装置としての「窓」をきわめて重視していた。そして、彼は窓の構成こそ、建築を決定しているとまで考えていた。したがって、子規の書斎(病室)とは比べものにならないほど、ル・コルビュジエは、視覚装置としての窓の多様性を、デザインつまり表象として実現していった。とはいえ、窓が視覚装置であるという点においては、子規の書斎(病室)のガラス障子といささかもかわることはない。しかし、ル・コルビュジエは、住まいを徹底した視覚装置、まるでカメラのように考えていたという点では、子規のガラス障子のようにおだやかなものではなかった。子規のガラス障子は、フレームではあっても、操作されたフレームではない。他方、C ル・コルビュジエの窓は、確信を持ってつくられたフレームであった。
ル・コルビュジエは、ブエノス・アイレスでイ行った講演のなかで、「建築の歴史を窓の各時代の推移で示してみよう」といい、また窓によって「建築の性格が決定されてきたのです」と述べている。そして、古代ポンペイの出窓、ロマネスクの窓、ゴシックの窓、さらに19世紀パリの窓から現代の窓のあり方までを歴史的に検討してみせる。そして「窓は採光のためにあり、換気のためではない」とも述べている。こうしたル・コルビュジエの窓についての言説について、アン・フリードバーグは、ル・コルビュジエのいう住宅は「住むための機械」であると同時に、それはまた「見るための機械でもあった」のだと述べている。さらに、ル・コルビュジエは、窓に換気ではなく「視界と採光」を優先したのであり、それは「窓のフレームと窓の形、すなわち「アスペクト比」の変更を引き起こした」と指摘している。ル・コルビュジエは窓を、外界を切り取るフレームだと捉えており、その結果、窓の形、そして「アスペクト比」(ディスプレイの長辺と短辺の比)が変化したというのである。
実際彼は、両親のための家をレマン湖のほとりに建てている。まず、この家は、塀(壁)で囲まれているのだが、これについてル・コルビュジエは、次のように記述している。
省略
(『小さな家』(注5))
風景を見る「視覚装置」としての窓(開口部)と壁をいかに構成するかが、ル・コルビュジエにとって課題であったことがわかる。
(柏木博(かしわぎひろし)『視覚の生命力 ――― イメージの復権』による)
【文章Ⅱ】
1920年代の最後期を飾る初期の古典的作品サヴォア邸(注6)は、見事なプロポーション(注7)をもつ「横長の窓」を示す。が一方、「横長の窓」を内側から見ると、それは壁をくりぬいた窓であり、その意味は反転する。それは四周を遮る壁体となる。「横長の窓」は、「横長の壁」となって現われる。「横長の窓」は1920年代から1930年代に入ると、「全面ガラスの壁面」へと移行する。スイス館(注8)がこれをよく示している。しかしながらスイス館の屋上庭園の四周は、強固な壁で囲われている。大気は壁で仕切られているのである。
かれは初期につぎのようにいう。「住宅は沈思黙考の場である」。あるいは「人間には自らを消耗する〈仕事の時間〉があり、自らをひき上げて、心のエキンセンに耳を傾ける〈瞑想(めいそう)の時間〉とがある」。
これらの言葉には、いわゆる近代建築の理論においては説明しがたい一つの空間論が現わされている。一方は、いわば光のオウトんじられる世界であり、他方は光の溢(あふ)れる世界である。つまり、前者は内面的な世界に、後者は外的な世界に関わっている。
かれは『小さな家』において「風景」を語る:
省略
ここに語られる「風景」は動かぬ視点をもっている。かれが多くを語った「動く視点」にたいするこの「動かぬ視点」は風景を切り取る。視点と風景は、一つの壁によって隔てられ、そしてつながれる。風景は一点から見られ、眺められる。D 壁がもつ意味は、風景の観照の空間的構造化である。この動かぬ視点theōria(テオリア)(注9)の存在は、かれにおいて即興的なものではない。
かれは、住宅は、沈思黙考、美に関わると述べている。初期に明言されるこの思想は、明らかに動かぬ視点をもっている。その後の展開のなかで、沈思黙考の場をうたう住宅論は、動く視点が強調されるあまり、ル・コルビュジエにおいて影をひそめた感がある。しかしながら、このテーマはル・コルビュジエが後期に手がけた「礼拝堂」や「修道院」(注10)において再度主題化され、深く追求されている。「礼拝堂」や「修道院」は、なによりも沈思黙考、瞑想の場である。つまり、後期のこうした宗教建築を問うことにおいて、動く視点にたいするル・コルビュジエの動かぬ視点の意義が明瞭になる。
(呉谷充利(くれたにみつとし)『ル・コルビュジエと近代絵画 ――― 20世紀モダニズムの道程』による)
(注1)『墨汁一滴』 ――― 正岡子規(1867 ― 1902)が1901年に著した随筆集。
(注2)石井研堂 ――― ジャーナリスト、明治文化研究家(1865―1943)。
(注3)虚子 ――― 高浜虚子(1874―1959)。俳人、小説家。正岡子規に師事した。
(注4)アン・フリードバーグ ――― アメリカの映像メディア研究者(1952―2009)。
(注5)『小さな家』 ――― ル・コルビュジエ(1887―1965)が1954年に著した書物。自身が両親のためにレマン湖のほとりに建てた家について書かれている。
(注6)サヴォア邸 ――― ル・コルビュジエの設計で、パリ郊外に建てられた住宅。
(注7)プロポーション ――― つりあい。均整。
(注8)スイス館 ――― ル・コルビュジエの設計で、パリに建てられた建築物。
(注9)動かぬ視点theōria(テオリア) ――― ギリシア語で、「見ること」「眺めること」の意。
(注10)「礼拝堂」や「修道院」 ――― ロンシャンの礼拝堂とラ・トゥーレット修道院を指す。
次に示すのは、授業で【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】を読んだ後の、話し合いの様子である。これを読んで、後の問いに答えよ。
生徒A 【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、両方ともル・コルビュジエの建築における窓について論じられていたね。
生徒B 【文章Ⅰ】にも【文章Ⅱ】にも同じル・コルビュジエからの引用文があったけれど、少し違っていたよ。
生徒C よく読み比べると、( X )。
生徒B そうか、同じ文献でもどのように引用するかによって随分印象が変わるんだね。
生徒C 【文章Ⅰ】は正岡子規の部屋にあったガラス障子をふまえて、ル・コルビュジエの話題に移っていた。
生徒B なぜわざわざ子規のことを取り上げたのかな。
生徒A それは、( Y )のだと思う。
生徒B なるほど。でも、子規の話題は【文章Ⅱ】の内容ともつながるような気がしたんだけど。
生徒C そうだね。【文章Ⅱ】と関連づけて【文章Ⅰ】を読むと、( Z )と解釈できるね。
生徒A こうして二つの文章を読み比べながら話し合ってみると、いろいろ気づくことがあるね。
空欄( X )に入る発言として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。

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問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問10(第1問(評論) 問10) (訂正依頼・報告はこちら)
【文章Ⅰ】
寝返りさえ自らままならなかった子規にとっては、室内にさまざまなものを置き、それをながめることが楽しみだった。そして、ガラス障子のむこうに見える庭の植物や空を見ることが慰めだった。味覚のほかは視覚こそが子規の自身の存在を確認する感覚だった。子規は、視覚の人だったともいえる。障子の紙をガラスに入れ替えることで、A 子規は季節や日々の移り変わりを楽しむことができた。
『墨汁一滴』(注1)の3月12日には「不平十ケ条(じっかじょう)」として、「板ガラスの日本で出来ぬ不平」と書いている。この不平を述べている1901(明治34)年、たしかに日本では板ガラスは製造していなかったようだ。石井研堂(注2)の『増訂明治事物起原』には、「(明治)36年、原料も総(すべ)て本邦のものにて、完全なる板硝子(いたがらす)を製出せり。大正3年、欧州大戦の影響、本邦の輸入硝子は其(その)船便を失ふ、是(ここ)に於(おい)て、旭(あさひ)硝子製造会社等の製品が、漸(ようや)く用ひらるることとなり、わが板硝子界は、大発展を遂ぐるに至れり」とある。
これによると板ガラスの製造が日本で始まったのは、1903年ということになる。子規が不平を述べた2年後である。してみれば、虚子(注3)のすすめで子規の書斎(病室)に入れられた「ガラス障子」は、輸入品だったのだろう。高価なものであったと思われる。高価であってもガラス障子にすることで、子規は、庭の植物に季節の移ろいを見ることができ、青空や雨をながめることができるようになった。ほとんど寝たきりで身体を動かすことができなくなり、絶望的な気分の中で自殺することも頭によぎっていた子規。彼の書斎(病室)は、ガラス障子によって「見ることのできる装置(室内)」あるいは「見るための装置(室内)」へと変容したのである。
映画研究者のアン・フリードバーグ(注4)は、『ヴァーチャル・ウインドウ』のアボウトウで、「窓」は「フレーム」であり「スクリーン」でもあるといっている。
窓はフレームであるとともに、プロセニアム〔舞台と客席を区切る額縁状の部分〕でもある。窓の縁〔エッジ〕が、風景を切り取る。窓は外界を二次元の平面へと変える。つまり、窓はスクリーンとなる。窓と同様に、スクリーンは平面であると同時にフレーム ――― 映像〔イメージ〕が投影される反射面であり、視界を制限するフレーム ――― でもある。スクリーンは建築のひとつの構成要素であり、新しいやり方で、壁の通風を演出する。
子規の書斎は、ガラス障子によるプロセニアムがつくられたのであり、それは外界を二次元に変えるスクリーンでありフレームとなったのである。B ガラス障子は「視覚装置」だといえる。
子規の書斎(病室)の障子をガラス障子にすることで、その室内は「視覚装置」となったわけだが、実のところ、外界をながめることのできる「窓」は、視覚装置として、建築・住宅にもっとも重要な要素としてある。
建築家のル・コルビュジエは、いわば視覚装置としての「窓」をきわめて重視していた。そして、彼は窓の構成こそ、建築を決定しているとまで考えていた。したがって、子規の書斎(病室)とは比べものにならないほど、ル・コルビュジエは、視覚装置としての窓の多様性を、デザインつまり表象として実現していった。とはいえ、窓が視覚装置であるという点においては、子規の書斎(病室)のガラス障子といささかもかわることはない。しかし、ル・コルビュジエは、住まいを徹底した視覚装置、まるでカメラのように考えていたという点では、子規のガラス障子のようにおだやかなものではなかった。子規のガラス障子は、フレームではあっても、操作されたフレームではない。他方、C ル・コルビュジエの窓は、確信を持ってつくられたフレームであった。
ル・コルビュジエは、ブエノス・アイレスでイ行った講演のなかで、「建築の歴史を窓の各時代の推移で示してみよう」といい、また窓によって「建築の性格が決定されてきたのです」と述べている。そして、古代ポンペイの出窓、ロマネスクの窓、ゴシックの窓、さらに19世紀パリの窓から現代の窓のあり方までを歴史的に検討してみせる。そして「窓は採光のためにあり、換気のためではない」とも述べている。こうしたル・コルビュジエの窓についての言説について、アン・フリードバーグは、ル・コルビュジエのいう住宅は「住むための機械」であると同時に、それはまた「見るための機械でもあった」のだと述べている。さらに、ル・コルビュジエは、窓に換気ではなく「視界と採光」を優先したのであり、それは「窓のフレームと窓の形、すなわち「アスペクト比」の変更を引き起こした」と指摘している。ル・コルビュジエは窓を、外界を切り取るフレームだと捉えており、その結果、窓の形、そして「アスペクト比」(ディスプレイの長辺と短辺の比)が変化したというのである。
実際彼は、両親のための家をレマン湖のほとりに建てている。まず、この家は、塀(壁)で囲まれているのだが、これについてル・コルビュジエは、次のように記述している。
省略
(『小さな家』(注5))
風景を見る「視覚装置」としての窓(開口部)と壁をいかに構成するかが、ル・コルビュジエにとって課題であったことがわかる。
(柏木博(かしわぎひろし)『視覚の生命力 ――― イメージの復権』による)
【文章Ⅱ】
1920年代の最後期を飾る初期の古典的作品サヴォア邸(注6)は、見事なプロポーション(注7)をもつ「横長の窓」を示す。が一方、「横長の窓」を内側から見ると、それは壁をくりぬいた窓であり、その意味は反転する。それは四周を遮る壁体となる。「横長の窓」は、「横長の壁」となって現われる。「横長の窓」は1920年代から1930年代に入ると、「全面ガラスの壁面」へと移行する。スイス館(注8)がこれをよく示している。しかしながらスイス館の屋上庭園の四周は、強固な壁で囲われている。大気は壁で仕切られているのである。
かれは初期につぎのようにいう。「住宅は沈思黙考の場である」。あるいは「人間には自らを消耗する〈仕事の時間〉があり、自らをひき上げて、心のエキンセンに耳を傾ける〈瞑想(めいそう)の時間〉とがある」。
これらの言葉には、いわゆる近代建築の理論においては説明しがたい一つの空間論が現わされている。一方は、いわば光のオウトんじられる世界であり、他方は光の溢(あふ)れる世界である。つまり、前者は内面的な世界に、後者は外的な世界に関わっている。
かれは『小さな家』において「風景」を語る:
省略
ここに語られる「風景」は動かぬ視点をもっている。かれが多くを語った「動く視点」にたいするこの「動かぬ視点」は風景を切り取る。視点と風景は、一つの壁によって隔てられ、そしてつながれる。風景は一点から見られ、眺められる。D 壁がもつ意味は、風景の観照の空間的構造化である。この動かぬ視点theōria(テオリア)(注9)の存在は、かれにおいて即興的なものではない。
かれは、住宅は、沈思黙考、美に関わると述べている。初期に明言されるこの思想は、明らかに動かぬ視点をもっている。その後の展開のなかで、沈思黙考の場をうたう住宅論は、動く視点が強調されるあまり、ル・コルビュジエにおいて影をひそめた感がある。しかしながら、このテーマはル・コルビュジエが後期に手がけた「礼拝堂」や「修道院」(注10)において再度主題化され、深く追求されている。「礼拝堂」や「修道院」は、なによりも沈思黙考、瞑想の場である。つまり、後期のこうした宗教建築を問うことにおいて、動く視点にたいするル・コルビュジエの動かぬ視点の意義が明瞭になる。
(呉谷充利(くれたにみつとし)『ル・コルビュジエと近代絵画 ――― 20世紀モダニズムの道程』による)
(注1)『墨汁一滴』 ――― 正岡子規(1867 ― 1902)が1901年に著した随筆集。
(注2)石井研堂 ――― ジャーナリスト、明治文化研究家(1865―1943)。
(注3)虚子 ――― 高浜虚子(1874―1959)。俳人、小説家。正岡子規に師事した。
(注4)アン・フリードバーグ ――― アメリカの映像メディア研究者(1952―2009)。
(注5)『小さな家』 ――― ル・コルビュジエ(1887―1965)が1954年に著した書物。自身が両親のためにレマン湖のほとりに建てた家について書かれている。
(注6)サヴォア邸 ――― ル・コルビュジエの設計で、パリ郊外に建てられた住宅。
(注7)プロポーション ――― つりあい。均整。
(注8)スイス館 ――― ル・コルビュジエの設計で、パリに建てられた建築物。
(注9)動かぬ視点theōria(テオリア) ――― ギリシア語で、「見ること」「眺めること」の意。
(注10)「礼拝堂」や「修道院」 ――― ロンシャンの礼拝堂とラ・トゥーレット修道院を指す。
次に示すのは、授業で【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】を読んだ後の、話し合いの様子である。これを読んで、後の問いに答えよ。
生徒A 【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】は、両方ともル・コルビュジエの建築における窓について論じられていたね。
生徒B 【文章Ⅰ】にも【文章Ⅱ】にも同じル・コルビュジエからの引用文があったけれど、少し違っていたよ。
生徒C よく読み比べると、( X )。
生徒B そうか、同じ文献でもどのように引用するかによって随分印象が変わるんだね。
生徒C 【文章Ⅰ】は正岡子規の部屋にあったガラス障子をふまえて、ル・コルビュジエの話題に移っていた。
生徒B なぜわざわざ子規のことを取り上げたのかな。
生徒A それは、( Y )のだと思う。
生徒B なるほど。でも、子規の話題は【文章Ⅱ】の内容ともつながるような気がしたんだけど。
生徒C そうだね。【文章Ⅱ】と関連づけて【文章Ⅰ】を読むと、( Z )と解釈できるね。
生徒A こうして二つの文章を読み比べながら話し合ってみると、いろいろ気づくことがあるね。
空欄( X )に入る発言として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。

- 【文章Ⅰ】の引用文は、壁による閉塞とそこから開放される視界についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁の圧迫感について記された部分が省略されて、三方を囲んで形成される壁の話に接続されている
- 【文章Ⅰ】の引用文は、視界を遮る壁とその壁に設けられた窓の機能についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁の機能が中心に述べられていて、その壁によってどの方角を遮るかが重要視されている
- 【文章Ⅰ】の引用文は、壁の外に広がる圧倒的な景色とそれを限定する窓の役割についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、主に外部を遮る壁の機能について説明されていて、窓の機能には触れられていない
- 【文章Ⅰ】の引用文は、周囲を囲う壁とそこに開けられた窓の効果についての内容だけど、【文章Ⅱ】の引用文では、壁に窓を設けることの意図が省略されて、視界を遮って壁で囲う効果が強調されている
正解!素晴らしいです
残念...
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