大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問10 (第1問(評論) 問10)
問題文
【文章Ⅰ】
手塚のまんが記号説とは自身によって以下のように説明される。
<たとえばね、僕の描く女が無機質だとか、色気がないとか、マネキンみたいだとかいろいろ言われるんだけれど、僕ね、最近ふと思いついたんだけれど、どうも僕自身あまり画(え)を描こうとしてるんじゃないと思うの。僕は大体、もともと画が本職じゃないしね、デッサンなんかもやったことないし、まったく自己流の画でしょ。だから、それは表現の手段としてね、たまたまお話をつくる道具として画らしきものは描いていますけど、僕にとってあれは画じゃないんじゃないかと、本当に最近思いだしたんです。
じゃあ何かっていうとね、象形文字みたいなものじゃないかと思う。僕の画っていうのは、驚くと目がまるくなるし、怒ると必ずヒゲオヤジ(注1)みたいに目のところにシワが寄るし、顔がとびだすし。(笑)
そう、パターンがあるのね。つまり、ひとつの記号なんだと思う。で、このパターンとこのパターンとこのパターンを組み合わせると、ひとつのまとまった画らしきものができる。その組み合わせのパターンていうのは、僕の頭のなかに何百通りってあるわけです。だけどそれはジュン(ア)スイの絵画じゃなくてね、非常に省略しきったひとつの記号なのだと思う。>
(手塚治虫インタビュー「珈琲(コーヒー)と紅茶で深夜まで・・・」、『ぱふ』’79年10月号)
図1(本問末尾に掲載)はインタビューよりさらに十年前、まんがの技術論として手塚が上梓(じょうし)した『まんが専科初級編』に収録されたものだが、手塚はここで図らずも自らの記号的表現を一覧表化している。人間の感情という領域を手塚はパターン化した表情に還元する。あらかじめこのような「記号」が存在し、そこにまた別の「記号」である男女や民族、年齢等を示すパターンが任意に組み合わされて、一人の人間が表現される。しかし、表現された一人の人間はその感情も含めて記号の集積に還元されてしまう。つまり、A そこでは一人の人間の個別性はけっして存在しえないのである。
<キャラクターにしてもそうだと思うんですよ。僕の作品にはいろんなキャラがでてくるようだけど、あれはみんなパターン化しちゃってるんですよ。悪いキャラとか、細長いキャラとか、目の大きいキャラとか。美人とか美男子なんてみんな同じ顔になってしまう。ただ髪だけが違ってね。その髪形もよく見れば別のキャラからとってきたものだったり。だから、キャラクターっていうのは僕にとって単語なんですね。> (手塚、前掲インタビュー)
このインタビューのテーマは当初、掲載誌の手塚まんがのキャラクター特集に合わせて試みられたものである。しかし手塚は、インタビュアーのキャラクターへの思い入れを拒絶するかのように、このまんが記号説を語ったのである。このキャラクター、すなわちまんがの図像に対して読者が「意味」を見出(みいだ)そうとしたことを手塚が拒否した、というまんが記号説が語られた文脈は重要な意味を持っているので、注意を喚起しておきたい。
それでは手塚にとってまんが表現における「絵」とは何かといえば、それは「お話をつくる道具」、つまり、「言語」であるという。しかし、手塚のまんが記号説において重要なのは、その「言語」を手塚は徹底して意味を廃した人工的なものとみなしている点である。
<たとえば、エスペラント語(注2)という、これはまったく理想化された国際言語形態があるでしょ。これにはなんら、もとになる意味づけがないわけです。でも言語っていうのはもともと、英語にせよフランス語にせよラテン語にせよ、発生から意味はあったと思うんです。> (手塚、前掲インタビュー)
手塚はここで、まんが的記号における言霊(ことだま)的な根拠とでもいうべきものを否定しているのである。全く任意の記号として彼はまんが的記号を定義している。そもそもことばには「もとになる意味づけ」があり、それは歴史的文化的な所産である。だからこそことばはナショナルなものの依(よ)り所になりうるのである。こういったことばの喚起する歴史的なイマジネーションを仮に言霊と形容するなら、手塚はいっさいそれを廃した人工言語として自らのまんが表現を規定しているのである。
確かにまんが表現における「記号」性は文化や民族による意味付けに思いのほか、(イ)コウソクされていない。それは日本独自のものと信じて疑わなかった戦後まんがの汎世界化(注3)によって図らずも証明された形となった。無論、まんが記号の汎世界化はアメリカニズムの汎世界化にすぎない、という見解をぼくは否定しない。だが少なくともまんが表現が手塚によって文化的な固有性を拒絶した国際語としてあらかじめ意識されていたことは重要である。このことはジャパニメーション(注4)の国際的評価の高まりを日本文化の世界化と単純に見なすおたく文化とナショナリズムの結託に対する一定の批判となっているのは言うまでもない。まんが記号は非「日本語」として手塚にはあったことは見逃すべきではない。B <記号>として設計されたことと、汎世界化は不可分の関係として手塚は理解していたのである。
このように手塚まんがの表現とは<ことば>としての歴史性を放棄した言語としてあらかじめあった。こういったまんが記号の人工性は同時に作者の特権性の放棄を意味する。手塚は自らの表現における個性をまず「記号」という無個性な言語に還元することで、自らの特権性を放棄してみせたのである。
(大塚英志(おつかえいじ)『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』による)
【文章Ⅱ】
80年代に(ウ)リュウセイを迎えたロゴの特徴は、ひとことで言えば、アルファベットを中心とした文字要素の洗練によるVI(注5)の確立であり、それは、ヨーロッパの伝統的ブランドのロゴを多分に意識したものであった。その使命は、シェアの拡大を目指すなかで、横並びの同業種に対して、差異を記すことであった。それは、この時代の記号論や消費社会論が提出した、記号の価値がモノの価値に優先するという主張を端的に証明するものであった。
しかし、<キャラ>は、モノとの関係を断ち切り、それとしての自立性を獲得する。<キャラ>は、それを作成した企業や、あるいは、それが登場する作品とは、無関係に独自の発展を遂げるのである。
また、形態の上でも、ロゴがアルファベットを中心とした文字要素の洗練化によって特徴づけられるのに対して、<キャラ>は、人称化=ヒト化した形象である。そして、<キャラ>を、すぐれてコミュニケーションのvector(注6)としているのは、このようなヒト化=人称化の力であり、それは、<キャラ>が「指標的」対象だということである。
この点を明らかにするのが、コミュニケーションの哲学者、ダニエル・ブーニューの提案する「記号のピラミッド」(図2、本問末尾に掲載)、そして、「指標的コミュニケーション」の概念である。記号のピラミッドは、ブーニューらがテイ(エ)ショウするメディオロジー(注7)の基礎をなすものであり、パース(注8)が定式化した象徴/類像/指標という記号の三分類を、コミュニケーション論・メディア論の基礎理論とすべく更新するものである。このピラミッドの基層には、「接触(contact)」によって規定される指標の次元があり、人間のコミュニケーション活動やメディアの活動を下支えしている。それに対して、最上層には、社会的に確立された規約によって規定され、言語、特に文字を典型とする象徴の次元がある。そして、これらの中間に、イメージの次元である類像の次元があり、一方では、象徴記号のように、直接的、一回的なものである接触関係から離脱し、「いまここ」を超えて理解されるが、他方では、いまだ指標記号のように、直接的で直観的な強い訴求力を保持している。そして、この記号のピラミッドが、下から、指標/類像/象徴の順で並べられているのは、個体の成長、文化の進展が、その都度、確立される一回的な文脈に埋め込まれた、直接的な接触関係から、イメージの獲得を経て、コードが共有されている限り、いつでもどこでも、脱文脈的に理解される言語、文字の次元へと進んでいくことに応じたものである。これに対して、複製技術としてのメディアは、文字の複製としての印刷術から、写真や映画といった19世紀的なイメージの複製から、「いまここ」の出来事を構成するテレビを経て、一回的なものを複製する21世紀的なデジタル技術へと変遷してきたわけだが、この変遷は、このピラミッドに従えば、個体や文化の場合とはちょうど逆の方向で進んできたのが明らかになる。
この記号のピラミッドに位置づけるなら、ロゴにしろ、<キャラ>にしろ、VIは、イメージとして、類像の次元に属するものである。しかし、ブランド名を表す、アルファベットの文字要素を洗練化したVIが、象徴の次元に接し、それを担保としているのに対して、C <キャラ>は、そのような担保から切り離され、指標記号のレベルに接近したものである。
この点を明瞭に表しているのは、キャラが<顔>的対象だということである。認知心理学や発達心理学が明らかにしているように、われわれ人間は<顔>に対して、認知的親和性を持っている。誕生直後の赤ん坊も<顔>的な対象に対して、特別な関心を示すだけでなく、その表情を模倣しもする。このような親和性は、大人でも維持され、たとえば、曇りや(オ)ハクメイなど、認知にとっての悪条件下では、<顔>以外の対象であっても、<顔>として認識してしまう(心霊現象、あるいは、いわゆるシミュラクラ現象(注9)を想起しよう)。このようにわれわれの視線を引きつけずにはいられない<顔>とは、「交話的(phatic)」(注10)イメージであり、その意味で、すぐれて指標的対象である。
(西兼志(にしけんじ)「コミュニケーションのvectorとしての<キャラ>indi−visualコミュニケーション」による)
(注1)ヒゲオヤジ ―― 手塚治虫の漫画にしばしば登場する人物。
(注2)エスペラント語 ―― 1887年にザメンホフ(1859−1917)によって公表された人工の国際語。
(注3)世界化 ―― 世界に広く行き渡ること。
(注4)ジャパニメーション ―― ジャパンとアニメーションの合成語。日本製アニメーション。
(注5)VI ―― ヴィジュアル・アイデンティティ。視覚的記号。
(注6)vector ―― ここでは媒介するものの意。
(注7)メディオロジー ―― メディアの機能に着目して伝達作用を研究する学問領域。
(注8)パース ―― アメリカの哲学者(1839−1914)。
(注9)シミュラクラ現象 ―― 三つの点の集まりを人の顔と認識してしまう脳の働き。
(注10)交話的(phatic) ―― 情報伝達を目的としない、人同士の接触を確認する言葉の
次に示すのは、授業で【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】を読んだ後の話し合いの様子である。これを読んで、後の問いに答えよ。
生徒A:【文章Ⅰ】では手塚まんがのキャラクターについて、【文章Ⅱ】でも<キャラ>について論じられていたね。
生徒B:そうだね。( X )。
生徒C:【文章Ⅰ】の筆者によれば、手塚は言霊的なものに基づく読み手の思い入れを拒んでいたけれど、インタビュアーは手塚のキャラクターに思い入れを抱いていたようだね。
生徒A:この手塚の意図とインタビュアーの反応とのずれについて、どう考えれば良いだろう。
生徒B:読み手によるキャラクターの受けとめ方について、【文章Ⅱ】の<キャラ>の分析を参考に考えてみてはどうかな。
生徒C:それはいいね。【文章Ⅱ】では、( Y )と書かれていたね。
生徒A:そうだね。【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】を合わせて読んでみると、インタビュアーの反応は、( Z )のあらわれと言えるのかもしれないね。
生徒B:キャラクターや<キャラ>の特徴について、様々な角度から考えてみることが大切だね。
空欄( X )に入る発言として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問10(第1問(評論) 問10) (訂正依頼・報告はこちら)
【文章Ⅰ】
手塚のまんが記号説とは自身によって以下のように説明される。
<たとえばね、僕の描く女が無機質だとか、色気がないとか、マネキンみたいだとかいろいろ言われるんだけれど、僕ね、最近ふと思いついたんだけれど、どうも僕自身あまり画(え)を描こうとしてるんじゃないと思うの。僕は大体、もともと画が本職じゃないしね、デッサンなんかもやったことないし、まったく自己流の画でしょ。だから、それは表現の手段としてね、たまたまお話をつくる道具として画らしきものは描いていますけど、僕にとってあれは画じゃないんじゃないかと、本当に最近思いだしたんです。
じゃあ何かっていうとね、象形文字みたいなものじゃないかと思う。僕の画っていうのは、驚くと目がまるくなるし、怒ると必ずヒゲオヤジ(注1)みたいに目のところにシワが寄るし、顔がとびだすし。(笑)
そう、パターンがあるのね。つまり、ひとつの記号なんだと思う。で、このパターンとこのパターンとこのパターンを組み合わせると、ひとつのまとまった画らしきものができる。その組み合わせのパターンていうのは、僕の頭のなかに何百通りってあるわけです。だけどそれはジュン(ア)スイの絵画じゃなくてね、非常に省略しきったひとつの記号なのだと思う。>
(手塚治虫インタビュー「珈琲(コーヒー)と紅茶で深夜まで・・・」、『ぱふ』’79年10月号)
図1(本問末尾に掲載)はインタビューよりさらに十年前、まんがの技術論として手塚が上梓(じょうし)した『まんが専科初級編』に収録されたものだが、手塚はここで図らずも自らの記号的表現を一覧表化している。人間の感情という領域を手塚はパターン化した表情に還元する。あらかじめこのような「記号」が存在し、そこにまた別の「記号」である男女や民族、年齢等を示すパターンが任意に組み合わされて、一人の人間が表現される。しかし、表現された一人の人間はその感情も含めて記号の集積に還元されてしまう。つまり、A そこでは一人の人間の個別性はけっして存在しえないのである。
<キャラクターにしてもそうだと思うんですよ。僕の作品にはいろんなキャラがでてくるようだけど、あれはみんなパターン化しちゃってるんですよ。悪いキャラとか、細長いキャラとか、目の大きいキャラとか。美人とか美男子なんてみんな同じ顔になってしまう。ただ髪だけが違ってね。その髪形もよく見れば別のキャラからとってきたものだったり。だから、キャラクターっていうのは僕にとって単語なんですね。> (手塚、前掲インタビュー)
このインタビューのテーマは当初、掲載誌の手塚まんがのキャラクター特集に合わせて試みられたものである。しかし手塚は、インタビュアーのキャラクターへの思い入れを拒絶するかのように、このまんが記号説を語ったのである。このキャラクター、すなわちまんがの図像に対して読者が「意味」を見出(みいだ)そうとしたことを手塚が拒否した、というまんが記号説が語られた文脈は重要な意味を持っているので、注意を喚起しておきたい。
それでは手塚にとってまんが表現における「絵」とは何かといえば、それは「お話をつくる道具」、つまり、「言語」であるという。しかし、手塚のまんが記号説において重要なのは、その「言語」を手塚は徹底して意味を廃した人工的なものとみなしている点である。
<たとえば、エスペラント語(注2)という、これはまったく理想化された国際言語形態があるでしょ。これにはなんら、もとになる意味づけがないわけです。でも言語っていうのはもともと、英語にせよフランス語にせよラテン語にせよ、発生から意味はあったと思うんです。> (手塚、前掲インタビュー)
手塚はここで、まんが的記号における言霊(ことだま)的な根拠とでもいうべきものを否定しているのである。全く任意の記号として彼はまんが的記号を定義している。そもそもことばには「もとになる意味づけ」があり、それは歴史的文化的な所産である。だからこそことばはナショナルなものの依(よ)り所になりうるのである。こういったことばの喚起する歴史的なイマジネーションを仮に言霊と形容するなら、手塚はいっさいそれを廃した人工言語として自らのまんが表現を規定しているのである。
確かにまんが表現における「記号」性は文化や民族による意味付けに思いのほか、(イ)コウソクされていない。それは日本独自のものと信じて疑わなかった戦後まんがの汎世界化(注3)によって図らずも証明された形となった。無論、まんが記号の汎世界化はアメリカニズムの汎世界化にすぎない、という見解をぼくは否定しない。だが少なくともまんが表現が手塚によって文化的な固有性を拒絶した国際語としてあらかじめ意識されていたことは重要である。このことはジャパニメーション(注4)の国際的評価の高まりを日本文化の世界化と単純に見なすおたく文化とナショナリズムの結託に対する一定の批判となっているのは言うまでもない。まんが記号は非「日本語」として手塚にはあったことは見逃すべきではない。B <記号>として設計されたことと、汎世界化は不可分の関係として手塚は理解していたのである。
このように手塚まんがの表現とは<ことば>としての歴史性を放棄した言語としてあらかじめあった。こういったまんが記号の人工性は同時に作者の特権性の放棄を意味する。手塚は自らの表現における個性をまず「記号」という無個性な言語に還元することで、自らの特権性を放棄してみせたのである。
(大塚英志(おつかえいじ)『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』による)
【文章Ⅱ】
80年代に(ウ)リュウセイを迎えたロゴの特徴は、ひとことで言えば、アルファベットを中心とした文字要素の洗練によるVI(注5)の確立であり、それは、ヨーロッパの伝統的ブランドのロゴを多分に意識したものであった。その使命は、シェアの拡大を目指すなかで、横並びの同業種に対して、差異を記すことであった。それは、この時代の記号論や消費社会論が提出した、記号の価値がモノの価値に優先するという主張を端的に証明するものであった。
しかし、<キャラ>は、モノとの関係を断ち切り、それとしての自立性を獲得する。<キャラ>は、それを作成した企業や、あるいは、それが登場する作品とは、無関係に独自の発展を遂げるのである。
また、形態の上でも、ロゴがアルファベットを中心とした文字要素の洗練化によって特徴づけられるのに対して、<キャラ>は、人称化=ヒト化した形象である。そして、<キャラ>を、すぐれてコミュニケーションのvector(注6)としているのは、このようなヒト化=人称化の力であり、それは、<キャラ>が「指標的」対象だということである。
この点を明らかにするのが、コミュニケーションの哲学者、ダニエル・ブーニューの提案する「記号のピラミッド」(図2、本問末尾に掲載)、そして、「指標的コミュニケーション」の概念である。記号のピラミッドは、ブーニューらがテイ(エ)ショウするメディオロジー(注7)の基礎をなすものであり、パース(注8)が定式化した象徴/類像/指標という記号の三分類を、コミュニケーション論・メディア論の基礎理論とすべく更新するものである。このピラミッドの基層には、「接触(contact)」によって規定される指標の次元があり、人間のコミュニケーション活動やメディアの活動を下支えしている。それに対して、最上層には、社会的に確立された規約によって規定され、言語、特に文字を典型とする象徴の次元がある。そして、これらの中間に、イメージの次元である類像の次元があり、一方では、象徴記号のように、直接的、一回的なものである接触関係から離脱し、「いまここ」を超えて理解されるが、他方では、いまだ指標記号のように、直接的で直観的な強い訴求力を保持している。そして、この記号のピラミッドが、下から、指標/類像/象徴の順で並べられているのは、個体の成長、文化の進展が、その都度、確立される一回的な文脈に埋め込まれた、直接的な接触関係から、イメージの獲得を経て、コードが共有されている限り、いつでもどこでも、脱文脈的に理解される言語、文字の次元へと進んでいくことに応じたものである。これに対して、複製技術としてのメディアは、文字の複製としての印刷術から、写真や映画といった19世紀的なイメージの複製から、「いまここ」の出来事を構成するテレビを経て、一回的なものを複製する21世紀的なデジタル技術へと変遷してきたわけだが、この変遷は、このピラミッドに従えば、個体や文化の場合とはちょうど逆の方向で進んできたのが明らかになる。
この記号のピラミッドに位置づけるなら、ロゴにしろ、<キャラ>にしろ、VIは、イメージとして、類像の次元に属するものである。しかし、ブランド名を表す、アルファベットの文字要素を洗練化したVIが、象徴の次元に接し、それを担保としているのに対して、C <キャラ>は、そのような担保から切り離され、指標記号のレベルに接近したものである。
この点を明瞭に表しているのは、キャラが<顔>的対象だということである。認知心理学や発達心理学が明らかにしているように、われわれ人間は<顔>に対して、認知的親和性を持っている。誕生直後の赤ん坊も<顔>的な対象に対して、特別な関心を示すだけでなく、その表情を模倣しもする。このような親和性は、大人でも維持され、たとえば、曇りや(オ)ハクメイなど、認知にとっての悪条件下では、<顔>以外の対象であっても、<顔>として認識してしまう(心霊現象、あるいは、いわゆるシミュラクラ現象(注9)を想起しよう)。このようにわれわれの視線を引きつけずにはいられない<顔>とは、「交話的(phatic)」(注10)イメージであり、その意味で、すぐれて指標的対象である。
(西兼志(にしけんじ)「コミュニケーションのvectorとしての<キャラ>indi−visualコミュニケーション」による)
(注1)ヒゲオヤジ ―― 手塚治虫の漫画にしばしば登場する人物。
(注2)エスペラント語 ―― 1887年にザメンホフ(1859−1917)によって公表された人工の国際語。
(注3)世界化 ―― 世界に広く行き渡ること。
(注4)ジャパニメーション ―― ジャパンとアニメーションの合成語。日本製アニメーション。
(注5)VI ―― ヴィジュアル・アイデンティティ。視覚的記号。
(注6)vector ―― ここでは媒介するものの意。
(注7)メディオロジー ―― メディアの機能に着目して伝達作用を研究する学問領域。
(注8)パース ―― アメリカの哲学者(1839−1914)。
(注9)シミュラクラ現象 ―― 三つの点の集まりを人の顔と認識してしまう脳の働き。
(注10)交話的(phatic) ―― 情報伝達を目的としない、人同士の接触を確認する言葉の
次に示すのは、授業で【文章Ⅰ】【文章Ⅱ】を読んだ後の話し合いの様子である。これを読んで、後の問いに答えよ。
生徒A:【文章Ⅰ】では手塚まんがのキャラクターについて、【文章Ⅱ】でも<キャラ>について論じられていたね。
生徒B:そうだね。( X )。
生徒C:【文章Ⅰ】の筆者によれば、手塚は言霊的なものに基づく読み手の思い入れを拒んでいたけれど、インタビュアーは手塚のキャラクターに思い入れを抱いていたようだね。
生徒A:この手塚の意図とインタビュアーの反応とのずれについて、どう考えれば良いだろう。
生徒B:読み手によるキャラクターの受けとめ方について、【文章Ⅱ】の<キャラ>の分析を参考に考えてみてはどうかな。
生徒C:それはいいね。【文章Ⅱ】では、( Y )と書かれていたね。
生徒A:そうだね。【文章Ⅰ】と【文章Ⅱ】を合わせて読んでみると、インタビュアーの反応は、( Z )のあらわれと言えるのかもしれないね。
生徒B:キャラクターや<キャラ>の特徴について、様々な角度から考えてみることが大切だね。
空欄( X )に入る発言として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
- 【文章Ⅰ】では、キャラクターの人工言語的性質に基づく普遍性について述べられていたのに対して、【文章Ⅱ】では、<キャラ>の指標的性質に基づく自立性について述べられていた
- 【文章Ⅰ】では、キャラクターの言語記号的性質に基づく固有性について述べられていたのに対して、【文章Ⅱ】では、<キャラ>の類像的性質に基づく自立性について述べられていた
- 【文章Ⅰ】では、キャラクターの人工言語的性質に基づく固有性について述べられていたのに対して、【文章Ⅱ】では、<キャラ>の指標的性質に基づく親和性について述べられていた
- 【文章Ⅰ】では、キャラクターの言語記号的性質に基づく普遍性について述べられていたのに対して、【文章Ⅱ】では、<キャラ>の類像的性質に基づく親和性について述べられていた
正解!素晴らしいです
残念...
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