大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問14 (第2問(小説) 問2)
問題文
① 男は空を見あげた。
太陽は依然として雲に隠れている。夜明けから朝をすぎても、男のまわりに漂っている光線はつねに午後のそれであった。男は両手をこすり合(あわ)せた。寒気は朝よりもきびしくなった。漂着物のうちで燃えそうなものはひろいつくしていた。男の目が板小屋にとまった。(もっと早く気がつけば良かった)足早に板小屋を一巡した。砂丘の前方にノリ養殖場があったころ、見張り番が寝泊(ねとま)りした場所と思われた。養殖場が河口の北に移ってからは見すてられたのだ。潮流が変(かわ)ってノリがここでは栽培できなくなったのだ。
② 男は小屋の空樽(あきだる)を焚火(たきび)の方へ運びあげた。頭上にもちあげて投げおろす。タガ(注1)がゆるんだ。靴で二、三回けると板はばらばらになった。(潮流ってやつはいつかは変るのだ)こわれた樽を焚火にくべた。こびりついたタール(注2)が溶けて刺戟(しげき)的ないい匂いを放った。火が継続的に燃えることを見とどけておいてカメラにとりついた。
水は沖へしりぞきつつあった。レンズでのぞくまでもなくそれがわかった。ココア色の泥が水の下からあらわれ、しだいにその面積を拡大してゆく。
③ 水に追われて葦原(あしはら)へにげた鳥たちが群(むれ)をなして干潟へ舞いもどり、泥の中にひそむ生物をあさり始めた。小エビや貝の肉は鳥の好物なのである。
一羽ずつ望遠レンズの視野におさめて観察した。見なれた鳥である。
④ ひとわたり鳥をしらべ終(おわ)ると、ふたたびノートに没頭した。1st Nov.という日付のページはハイイロヒレアシシギ(注3)を見た記録で埋められていたが、その日、ここを訪れたのはヒレアシシギではなかった。湾口で操業する漁船団を望遠レンズで見物するのに夢中になっていたので、その男が近づくのを知らなかった。うしろに人の気配がし、声をかけられて初めて気がついた。
「何か見えるかね」
五十代の半ばに見えた。以前から会いたかった、といい、マニキュアをした指でタバコをつまみ出してすすめた。その人物は男が勤めていた放送局のある町で、かなり大きい印刷会社を経営していた。局内の印刷物を一手に引きうけていた関係で、何回か顔を合せたことがあるけれど、二人だけで話すのは初めてだった。
「こないだ局へ行ってあなたのことを尋ねたらやめちまったときいたんで少しびっくりしたよ。どんな事情にしろ会社をやめてまで鳥の撮影にうちこむのはちかごろ見上げた生き方だとわたしは思ったな」
A 男は鼻白んだ。会社をやめたのは鳥のためではなかった。しかしそれを説明するのも億劫(おっくう)だった。
「二、三度お宅にうかがったけれど留守のようで、もっとも毎日ここへ出かけて来てたんなら会えないわけだ」
写真集を出したい、と訪問者はいった。それは結構だ、と男は如才なく相槌(あいづち)をうった。
「いや、あんたの写真集を出したいといってるんだよ、わたしは」
B 説明してもらいたい、と男はいった。社長はうむ、といってカメラをのぞき、干潟におりた鳥の群をしばらく黙って観察した。カメラから目を離さずに、
「あれはどうもイワミセキレイ(注4)のようだね」
男は自分の双眼鏡で確かめ社長の言葉を肯定した。社長は溜息(ためいき)まじりに、
「イワミセキレイが今じぶんねえ」
このごろの鳥は季節をえらばなくなったのだと男は答えた。
「そうなんだよ、11月にならないと見られないユリカモメが10月初旬にちらほらしたり、それから1月の白鳥が5月ごろ空を飛ぶのをわたしは見たことがある。なにしろめちゃくちゃなんだ」
「コースをそれる鳥も目立ちますね」
この人物が、「郷土の散歩」というシリーズで放送する15分のローカル番組に登場して、自分の趣味である鳥の生態観察について語ったことを思い出した。二年ほど前である。鳥は狂ってるのだ、と社長はいった。
「そしてだれも鳥の世界でおこっている異変に気づかない」
社長は昂奮(こうふん)した。C 砂丘の上を歩きまわりながらしゃべりつづけた。
「四、五日前にコウノトリを見たよ」
コウノトリはとっくに絶滅したと思っていた、と男がいうと、10月の季節風にのって大陸から渡って来たのだろう、と社長はいった。「どうですか」と社長は干潟をさして、
「ここは鳥にしてみれば地上の楽園だよ、それが五年以内に埋めたてられて石油コンビナートか何かそんなものになっちまう。渡り鳥もそうなったら寄りつかないね。そこでひとつどうですか、ここへやって来る鳥たちの記録写真を一冊くらい残してやってもいいと思うんだが、天草の羊角湾(ようかくわん)(注5)ね」
社長はあっちかな、いやこっちの見当かといって湾口を指した。
「羊角湾を埋めたてて淡水湖にしちまったらさっぱり鳥が寄りつかなくなったんだそうだ」
かなりネガ(注6)はたまっている、と男はいった。印刷はまかせてくれ、と社長はいった。
「グラビアにはうちとしても自信があるし、取次店にも話をつけるからその点はご心配なく。カラー印刷の機械も入れたばかりでね、新しい機械を」
刊行するとしていつごろの予定だろうかと男はきいた。
「そうだな、12月いっぱいで一応とりだめたネガを整理してもらいたいね。印刷はいつからでもかかれるから」
買う人がいるだろうか、と男は懸念した。
「長期間のうちにぼつぼつ売れたらいいじゃないか。それよりあんたの手間に見合うだけの印税をたっぷり支払えたらいいと思うんだが」
男はあわてて印税をあてにしてはいないこと、それより自分の写真集をもつことができたら倖(しあわ)せだといった。
「あなたの写真集でもあり鳥たちの写真集でもあるわけだ。鳥と潟海(かたうみ)(注7)の記念碑、いや鳥のための墓標というべきだろうか」
社長は湾口に目をそそいだ。つかのま夢みるような表情になって両手をひろげ、二、三歩海へむかって歩いた。そこで腕を上下にゆるく動かした。男は社長が鳥に化身したのではないかと一瞬いぶかった。社長はひろげた両腕で潟海を胸に抱きとるような身ぶりをして、陽気に叫んだ。
⑤ 「海が埋めたてられても写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね」
⑥ 男はあの日、砂丘の端で社長がしたように両腕を水平にひろげた。―――写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね。D なんという芝居気たっぷりのせりふだったろう、と男はにがにがしく回想した。
二回目の会見まで社長はのり気だった。判型や紙質の打合(うちあわ)せをした。三回目は不在で、四回目には営業部の係長が応対した。社長から何もきいていないという。噂(うわさ)によれば新式のカラー印刷用機械を購入したために多額の不渡り(注8)を出して、工場は債権者団体に差しおさえられているという。よくあることだ、と男は思った。またしても一つの潮流がむきをかえただけのことだ。
⑦ 焚火にくべた木の根は長い間、海中にあったらしく表面が水と砂の摩擦でなめらかになっていた。樹皮はむけてしまい肌は色褪(いろあ)せて女の腰のように白い。空樽は乾ききっていてタールのこびりついていない部分はほとんど煙もあげず透明な焰(ほのお)をゆらめかせた。
男はぼんやりと焚火に目をそそいでいる。火というものは人を夢見心地にするもののようで、うずくまって焚火の中心を見まもっていると、いつのまにか焰に溶けこみ火と一体になり、心がからっぽになるようである。時間は停止し、永遠そのものであるような海のざわめきと葦のそよぎしか聞(きこ)えない。男はしかし眠りこんだのではなかった。時おり火から目を離してカメラをのぞいた。潮がひき、露(あら)わになった干潟には見なれた鳥がおり、見なれない鳥もいた。新しい特徴をもった鳥をみつけても、男はもうシャッターをおさなかった。望遠レンズでつぶさに観察するにとどめた。
「きょうが終りだ」
ひとりごとをいうのは癖になっていた。砂の上にはさっき計算した数字があった。百日の休暇を自分は有効にすごしたのだ、と思った。(渡りの途中で、鳥も翼を休めるのだから)水辺に墜落した鳥(注9)を思いだした。E 自分は群から脱落した鳥の一羽かもしれぬ。しかしまだ飛ぶことはできる。写真集がふいになったとわかっても男は河口へ通うことをやめなかった。初めからそれほど期待はしていなかったのだ。退職金はまだいくらか残っていた。しかしそれも12月19日がぎりぎりの日限であった。明日から新しい生活のために都会へ出発することになる。
男はカスピアン・ターン(注10)が回復するのをひたすら待ちつづけた。治癒はおそく餌もはかばかしく食べない日があった。ようやく傷は癒え、身動きが活撥(かっぱつ)になった。夜ふけしきりに箱の中でもがいて短い啼(な)き声をもらすことがあった。これをきょう河口へ運んで放すつもりだったのだ。帰ったら船着場(ふなつきば)のあたりででも離してやろうと男は考えた。
(注1)タガ ―― 樽などにはめて、外側を堅く締め固めるための竹などで作った輪。
(注2)タール ―― 石炭や木材などを空気に触れさせないで蒸し焼きにしたときにできる、可燃性の黒い液体。
(注3)ハイイロヒレアシシギ ―― 渡り鳥の一種。直後の「ヒレアシシギ」も同じ種の鳥を指す。
(注4)イワミセキレイ ―― 渡り鳥の一種。
(注5)羊角湾 ―― 熊本県天草市にある湾。本作が発表された時期から1997年まで干拓事業が行われた。
(注6)ネガ ―― ネガフィルムのこと。写真の原板。
(注7)潟海 ―― 遠浅の海岸。
(注8)不渡り ―― 期限になっても支払いができない手形や小切手のこと。
(注9)水辺に墜落した鳥 ―― 男は以前、墜落した鳥を観察中に目にした。男が保護している鳥とは異なる。
(注10)カスピアン・ターン ―― カモメ科の渡り鳥の一種。男が保護している鳥。
下線部B「説明してもらいたい、と男はいった。」とあるが、男の反応の説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問14(第2問(小説) 問2) (訂正依頼・報告はこちら)
① 男は空を見あげた。
太陽は依然として雲に隠れている。夜明けから朝をすぎても、男のまわりに漂っている光線はつねに午後のそれであった。男は両手をこすり合(あわ)せた。寒気は朝よりもきびしくなった。漂着物のうちで燃えそうなものはひろいつくしていた。男の目が板小屋にとまった。(もっと早く気がつけば良かった)足早に板小屋を一巡した。砂丘の前方にノリ養殖場があったころ、見張り番が寝泊(ねとま)りした場所と思われた。養殖場が河口の北に移ってからは見すてられたのだ。潮流が変(かわ)ってノリがここでは栽培できなくなったのだ。
② 男は小屋の空樽(あきだる)を焚火(たきび)の方へ運びあげた。頭上にもちあげて投げおろす。タガ(注1)がゆるんだ。靴で二、三回けると板はばらばらになった。(潮流ってやつはいつかは変るのだ)こわれた樽を焚火にくべた。こびりついたタール(注2)が溶けて刺戟(しげき)的ないい匂いを放った。火が継続的に燃えることを見とどけておいてカメラにとりついた。
水は沖へしりぞきつつあった。レンズでのぞくまでもなくそれがわかった。ココア色の泥が水の下からあらわれ、しだいにその面積を拡大してゆく。
③ 水に追われて葦原(あしはら)へにげた鳥たちが群(むれ)をなして干潟へ舞いもどり、泥の中にひそむ生物をあさり始めた。小エビや貝の肉は鳥の好物なのである。
一羽ずつ望遠レンズの視野におさめて観察した。見なれた鳥である。
④ ひとわたり鳥をしらべ終(おわ)ると、ふたたびノートに没頭した。1st Nov.という日付のページはハイイロヒレアシシギ(注3)を見た記録で埋められていたが、その日、ここを訪れたのはヒレアシシギではなかった。湾口で操業する漁船団を望遠レンズで見物するのに夢中になっていたので、その男が近づくのを知らなかった。うしろに人の気配がし、声をかけられて初めて気がついた。
「何か見えるかね」
五十代の半ばに見えた。以前から会いたかった、といい、マニキュアをした指でタバコをつまみ出してすすめた。その人物は男が勤めていた放送局のある町で、かなり大きい印刷会社を経営していた。局内の印刷物を一手に引きうけていた関係で、何回か顔を合せたことがあるけれど、二人だけで話すのは初めてだった。
「こないだ局へ行ってあなたのことを尋ねたらやめちまったときいたんで少しびっくりしたよ。どんな事情にしろ会社をやめてまで鳥の撮影にうちこむのはちかごろ見上げた生き方だとわたしは思ったな」
A 男は鼻白んだ。会社をやめたのは鳥のためではなかった。しかしそれを説明するのも億劫(おっくう)だった。
「二、三度お宅にうかがったけれど留守のようで、もっとも毎日ここへ出かけて来てたんなら会えないわけだ」
写真集を出したい、と訪問者はいった。それは結構だ、と男は如才なく相槌(あいづち)をうった。
「いや、あんたの写真集を出したいといってるんだよ、わたしは」
B 説明してもらいたい、と男はいった。社長はうむ、といってカメラをのぞき、干潟におりた鳥の群をしばらく黙って観察した。カメラから目を離さずに、
「あれはどうもイワミセキレイ(注4)のようだね」
男は自分の双眼鏡で確かめ社長の言葉を肯定した。社長は溜息(ためいき)まじりに、
「イワミセキレイが今じぶんねえ」
このごろの鳥は季節をえらばなくなったのだと男は答えた。
「そうなんだよ、11月にならないと見られないユリカモメが10月初旬にちらほらしたり、それから1月の白鳥が5月ごろ空を飛ぶのをわたしは見たことがある。なにしろめちゃくちゃなんだ」
「コースをそれる鳥も目立ちますね」
この人物が、「郷土の散歩」というシリーズで放送する15分のローカル番組に登場して、自分の趣味である鳥の生態観察について語ったことを思い出した。二年ほど前である。鳥は狂ってるのだ、と社長はいった。
「そしてだれも鳥の世界でおこっている異変に気づかない」
社長は昂奮(こうふん)した。C 砂丘の上を歩きまわりながらしゃべりつづけた。
「四、五日前にコウノトリを見たよ」
コウノトリはとっくに絶滅したと思っていた、と男がいうと、10月の季節風にのって大陸から渡って来たのだろう、と社長はいった。「どうですか」と社長は干潟をさして、
「ここは鳥にしてみれば地上の楽園だよ、それが五年以内に埋めたてられて石油コンビナートか何かそんなものになっちまう。渡り鳥もそうなったら寄りつかないね。そこでひとつどうですか、ここへやって来る鳥たちの記録写真を一冊くらい残してやってもいいと思うんだが、天草の羊角湾(ようかくわん)(注5)ね」
社長はあっちかな、いやこっちの見当かといって湾口を指した。
「羊角湾を埋めたてて淡水湖にしちまったらさっぱり鳥が寄りつかなくなったんだそうだ」
かなりネガ(注6)はたまっている、と男はいった。印刷はまかせてくれ、と社長はいった。
「グラビアにはうちとしても自信があるし、取次店にも話をつけるからその点はご心配なく。カラー印刷の機械も入れたばかりでね、新しい機械を」
刊行するとしていつごろの予定だろうかと男はきいた。
「そうだな、12月いっぱいで一応とりだめたネガを整理してもらいたいね。印刷はいつからでもかかれるから」
買う人がいるだろうか、と男は懸念した。
「長期間のうちにぼつぼつ売れたらいいじゃないか。それよりあんたの手間に見合うだけの印税をたっぷり支払えたらいいと思うんだが」
男はあわてて印税をあてにしてはいないこと、それより自分の写真集をもつことができたら倖(しあわ)せだといった。
「あなたの写真集でもあり鳥たちの写真集でもあるわけだ。鳥と潟海(かたうみ)(注7)の記念碑、いや鳥のための墓標というべきだろうか」
社長は湾口に目をそそいだ。つかのま夢みるような表情になって両手をひろげ、二、三歩海へむかって歩いた。そこで腕を上下にゆるく動かした。男は社長が鳥に化身したのではないかと一瞬いぶかった。社長はひろげた両腕で潟海を胸に抱きとるような身ぶりをして、陽気に叫んだ。
⑤ 「海が埋めたてられても写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね」
⑥ 男はあの日、砂丘の端で社長がしたように両腕を水平にひろげた。―――写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね。D なんという芝居気たっぷりのせりふだったろう、と男はにがにがしく回想した。
二回目の会見まで社長はのり気だった。判型や紙質の打合(うちあわ)せをした。三回目は不在で、四回目には営業部の係長が応対した。社長から何もきいていないという。噂(うわさ)によれば新式のカラー印刷用機械を購入したために多額の不渡り(注8)を出して、工場は債権者団体に差しおさえられているという。よくあることだ、と男は思った。またしても一つの潮流がむきをかえただけのことだ。
⑦ 焚火にくべた木の根は長い間、海中にあったらしく表面が水と砂の摩擦でなめらかになっていた。樹皮はむけてしまい肌は色褪(いろあ)せて女の腰のように白い。空樽は乾ききっていてタールのこびりついていない部分はほとんど煙もあげず透明な焰(ほのお)をゆらめかせた。
男はぼんやりと焚火に目をそそいでいる。火というものは人を夢見心地にするもののようで、うずくまって焚火の中心を見まもっていると、いつのまにか焰に溶けこみ火と一体になり、心がからっぽになるようである。時間は停止し、永遠そのものであるような海のざわめきと葦のそよぎしか聞(きこ)えない。男はしかし眠りこんだのではなかった。時おり火から目を離してカメラをのぞいた。潮がひき、露(あら)わになった干潟には見なれた鳥がおり、見なれない鳥もいた。新しい特徴をもった鳥をみつけても、男はもうシャッターをおさなかった。望遠レンズでつぶさに観察するにとどめた。
「きょうが終りだ」
ひとりごとをいうのは癖になっていた。砂の上にはさっき計算した数字があった。百日の休暇を自分は有効にすごしたのだ、と思った。(渡りの途中で、鳥も翼を休めるのだから)水辺に墜落した鳥(注9)を思いだした。E 自分は群から脱落した鳥の一羽かもしれぬ。しかしまだ飛ぶことはできる。写真集がふいになったとわかっても男は河口へ通うことをやめなかった。初めからそれほど期待はしていなかったのだ。退職金はまだいくらか残っていた。しかしそれも12月19日がぎりぎりの日限であった。明日から新しい生活のために都会へ出発することになる。
男はカスピアン・ターン(注10)が回復するのをひたすら待ちつづけた。治癒はおそく餌もはかばかしく食べない日があった。ようやく傷は癒え、身動きが活撥(かっぱつ)になった。夜ふけしきりに箱の中でもがいて短い啼(な)き声をもらすことがあった。これをきょう河口へ運んで放すつもりだったのだ。帰ったら船着場(ふなつきば)のあたりででも離してやろうと男は考えた。
(注1)タガ ―― 樽などにはめて、外側を堅く締め固めるための竹などで作った輪。
(注2)タール ―― 石炭や木材などを空気に触れさせないで蒸し焼きにしたときにできる、可燃性の黒い液体。
(注3)ハイイロヒレアシシギ ―― 渡り鳥の一種。直後の「ヒレアシシギ」も同じ種の鳥を指す。
(注4)イワミセキレイ ―― 渡り鳥の一種。
(注5)羊角湾 ―― 熊本県天草市にある湾。本作が発表された時期から1997年まで干拓事業が行われた。
(注6)ネガ ―― ネガフィルムのこと。写真の原板。
(注7)潟海 ―― 遠浅の海岸。
(注8)不渡り ―― 期限になっても支払いができない手形や小切手のこと。
(注9)水辺に墜落した鳥 ―― 男は以前、墜落した鳥を観察中に目にした。男が保護している鳥とは異なる。
(注10)カスピアン・ターン ―― カモメ科の渡り鳥の一種。男が保護している鳥。
下線部B「説明してもらいたい、と男はいった。」とあるが、男の反応の説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
- 男は当初、社長が写真集の出版にどの程度本気なのか疑いを持っていたが、強い意志を感じ取り自分も企画に正面から向き合おうとしている。
- 男は当初、写真集を出したいという社長に失礼にならない程度に対応していたが、自分の写真集だとわかり企画の内容を詳しく聞こうとしている。
- 男は当初、社長の企画に上辺だけ愛想よく応じていたが、写真集を出す長年の願望が実現しそうだとわかり戸惑いつつも前向きになっている。
- 男は当初、写真集を出版したいという社長の企画に興味はなかったが、自分も関係する話と知って意外に感じながら積極的に説明を求めている。
- 男は当初、企画を受け入れる返事を即座にするのをためらっていたが、写真集が刊行される保証を得たと判断し興味を隠しきれないでいる。
正解!素晴らしいです
残念...
この過去問の解説 (2件)
01
下線部Bの直前の文「それは結構だ、と男は如才なく相槌(あいづち)をうった。」
如才ない:人の振る舞いや態度が自然で表す様
自然に相槌をうっているということから、マイナスな印象ではないことが読み取れます。しかし、プラスな印象でもありません。
加えて注目してほしいのが、自然な相槌から説明を求める態度に変化したのは「写真集に自分が関係している」ためということです。
「男は~疑いを持っていた」という表現が誤りです。如才ない相槌から「疑い」という印象は読み取れません。
「自分も企画に正面から向き合おうとしている」説明を求めているだけであって、正面から向き合うほど積極性を示していません。
よって、この選択肢は誤りです。
「失礼にならない程度に対応」が如才ない相槌を指しています。
「企画の内容を詳しく聞こうとしている」説明を求めているの言い換えです。
よって、この選択肢は正しいです。
「写真集を出す長年の願望が実現しそうだとわかり」本文中に記述がありません。
実際、退職した理由が鳥のためではありませんでした。
よって、この選択肢は誤りです。
「社長の企画に興味はなかった」本文から読み取れません。自然な相槌であったことから興味がないとまでは言い切れません。
「意外に感じながら」ということが読み取れる表現がありません。
よって、この選択肢は誤りです。
男は写真集を出したいと思っていないため、写真集が刊行される保証を得たとしても男には無関係です。
また、説明を求めたのは興味を持っていたわけではなく、自身に関係があるからです。
よって、この選択肢は誤りです。
「如才ない」という表現の意味が分かれば、男が写真集に対してどのように感じているのかを読み取ることができます。
本文や問題から読み取れない深読みは禁物です。
客観的に読み取れる選択肢を選びましょう。
参考になった数0
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02
下線部Bの前後には男の感情を直接的に描写している文章は無いため、行動からその心情を読み取ります。
とはいえ文章に書かれていないことまで想像を膨らませるのは禁物なので注意しましょう。
ここで大きな手掛かりとなるのは下線部Bより前の「それは結構だ、と男は如才なく相槌(あいづち)をうった」という文章です。
はじめに、語句の意味を確認しておきましょう。
如才ない(じょさい-ない)…無理がなく自然体な態度。気が利いていて失礼のない態度。
つまり、写真集を出そうと思っていると発言した社長に対し、男は気の利いた様子で相槌を打ったのです。
男は如才なく相槌を打っていることから、選択肢の「疑いを持っていた」という様子とは合致しません。
また、強い意志を感じ取った様子や企画に正面から向き合おうとしている様子も描写されていないため、この選択肢は誤りです。
男が「如才なく相槌をうった」ことや、社長の発言を受けて下線部Bでさらなる説明を求めている様子が過不足なく捉えられているこの選択肢が正解です。
写真集を出すことが長年の願望だったという事実は文中に書かれていないので誤りです。
また、戸惑いつつも前向きになっている様子も本文だけからは判断できません。
社長が写真集を出したいと言った時に男が「それは結構だ」と如才ない態度で答えていることから、社長の企画に興味はなかったとは言えないため誤りです。
如才ない相槌をしつつ、心の底では興味が無かったのでは…?と考える必要はありません。
実際の文面に「興味があった」とも「興味が無かった」とも書かれていない以上、「興味はなかった」という文言を含んだ選択肢は誤りと判断できます。
また、意外に感じながら積極的に説明を求めている様子も描写されていないため、この部分も本文と合致していません。
社長の最初の「写真集を出したい」という発言の時点ではまだ男の撮った鳥の写真集であることは提案されていない上、写真集が刊行される保証を得たと判断したような描写も無いため誤りです。
本問は「如才ない」という言葉の意味を正しく理解しているかどうかが大きなポイントでした。
正しい意味が分かっていれば「疑いを持っていた」「興味は無かった」という言葉が含まれる選択肢は誤りであると即座に判断できます。
他の選択肢に関しては「実際に書かれている内容からそうだと言い切れるか」を基準に正誤を見分けると良いでしょう。
大学入学共通テストの小説問題では、「なんとなく見たことはあるけれど改めて聞かれるとうまく説明できない」という語句がキーワードになる傾向があります。
本や新聞、問題集に向かっていて意味が分からない語句に出会った際は、後回しにせずにその場ですぐ調べるようにしましょう。
そうすることで語彙力は着実に増えていきます。
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