大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問17 (第2問(小説) 問5)
問題文
① 男は空を見あげた。
太陽は依然として雲に隠れている。夜明けから朝をすぎても、男のまわりに漂っている光線はつねに午後のそれであった。男は両手をこすり合(あわ)せた。寒気は朝よりもきびしくなった。漂着物のうちで燃えそうなものはひろいつくしていた。男の目が板小屋にとまった。(もっと早く気がつけば良かった)足早に板小屋を一巡した。砂丘の前方にノリ養殖場があったころ、見張り番が寝泊(ねとま)りした場所と思われた。養殖場が河口の北に移ってからは見すてられたのだ。潮流が変(かわ)ってノリがここでは栽培できなくなったのだ。
② 男は小屋の空樽(あきだる)を焚火(たきび)の方へ運びあげた。頭上にもちあげて投げおろす。タガ(注1)がゆるんだ。靴で二、三回けると板はばらばらになった。(潮流ってやつはいつかは変るのだ)こわれた樽を焚火にくべた。こびりついたタール(注2)が溶けて刺戟(しげき)的ないい匂いを放った。火が継続的に燃えることを見とどけておいてカメラにとりついた。
水は沖へしりぞきつつあった。レンズでのぞくまでもなくそれがわかった。ココア色の泥が水の下からあらわれ、しだいにその面積を拡大してゆく。
③ 水に追われて葦原(あしはら)へにげた鳥たちが群(むれ)をなして干潟へ舞いもどり、泥の中にひそむ生物をあさり始めた。小エビや貝の肉は鳥の好物なのである。
一羽ずつ望遠レンズの視野におさめて観察した。見なれた鳥である。
④ ひとわたり鳥をしらべ終(おわ)ると、ふたたびノートに没頭した。1st Nov.という日付のページはハイイロヒレアシシギ(注3)を見た記録で埋められていたが、その日、ここを訪れたのはヒレアシシギではなかった。湾口で操業する漁船団を望遠レンズで見物するのに夢中になっていたので、その男が近づくのを知らなかった。うしろに人の気配がし、声をかけられて初めて気がついた。
「何か見えるかね」
五十代の半ばに見えた。以前から会いたかった、といい、マニキュアをした指でタバコをつまみ出してすすめた。その人物は男が勤めていた放送局のある町で、かなり大きい印刷会社を経営していた。局内の印刷物を一手に引きうけていた関係で、何回か顔を合せたことがあるけれど、二人だけで話すのは初めてだった。
「こないだ局へ行ってあなたのことを尋ねたらやめちまったときいたんで少しびっくりしたよ。どんな事情にしろ会社をやめてまで鳥の撮影にうちこむのはちかごろ見上げた生き方だとわたしは思ったな」
A 男は鼻白んだ。会社をやめたのは鳥のためではなかった。しかしそれを説明するのも億劫(おっくう)だった。
「二、三度お宅にうかがったけれど留守のようで、もっとも毎日ここへ出かけて来てたんなら会えないわけだ」
写真集を出したい、と訪問者はいった。それは結構だ、と男は如才なく相槌(あいづち)をうった。
「いや、あんたの写真集を出したいといってるんだよ、わたしは」
B 説明してもらいたい、と男はいった。社長はうむ、といってカメラをのぞき、干潟におりた鳥の群をしばらく黙って観察した。カメラから目を離さずに、
「あれはどうもイワミセキレイ(注4)のようだね」
男は自分の双眼鏡で確かめ社長の言葉を肯定した。社長は溜息(ためいき)まじりに、
「イワミセキレイが今じぶんねえ」
このごろの鳥は季節をえらばなくなったのだと男は答えた。
「そうなんだよ、11月にならないと見られないユリカモメが10月初旬にちらほらしたり、それから1月の白鳥が5月ごろ空を飛ぶのをわたしは見たことがある。なにしろめちゃくちゃなんだ」
「コースをそれる鳥も目立ちますね」
この人物が、「郷土の散歩」というシリーズで放送する15分のローカル番組に登場して、自分の趣味である鳥の生態観察について語ったことを思い出した。二年ほど前である。鳥は狂ってるのだ、と社長はいった。
「そしてだれも鳥の世界でおこっている異変に気づかない」
社長は昂奮(こうふん)した。C 砂丘の上を歩きまわりながらしゃべりつづけた。
「四、五日前にコウノトリを見たよ」
コウノトリはとっくに絶滅したと思っていた、と男がいうと、10月の季節風にのって大陸から渡って来たのだろう、と社長はいった。「どうですか」と社長は干潟をさして、
「ここは鳥にしてみれば地上の楽園だよ、それが五年以内に埋めたてられて石油コンビナートか何かそんなものになっちまう。渡り鳥もそうなったら寄りつかないね。そこでひとつどうですか、ここへやって来る鳥たちの記録写真を一冊くらい残してやってもいいと思うんだが、天草の羊角湾(ようかくわん)(注5)ね」
社長はあっちかな、いやこっちの見当かといって湾口を指した。
「羊角湾を埋めたてて淡水湖にしちまったらさっぱり鳥が寄りつかなくなったんだそうだ」
かなりネガ(注6)はたまっている、と男はいった。印刷はまかせてくれ、と社長はいった。
「グラビアにはうちとしても自信があるし、取次店にも話をつけるからその点はご心配なく。カラー印刷の機械も入れたばかりでね、新しい機械を」
刊行するとしていつごろの予定だろうかと男はきいた。
「そうだな、12月いっぱいで一応とりだめたネガを整理してもらいたいね。印刷はいつからでもかかれるから」
買う人がいるだろうか、と男は懸念した。
「長期間のうちにぼつぼつ売れたらいいじゃないか。それよりあんたの手間に見合うだけの印税をたっぷり支払えたらいいと思うんだが」
男はあわてて印税をあてにしてはいないこと、それより自分の写真集をもつことができたら倖(しあわ)せだといった。
「あなたの写真集でもあり鳥たちの写真集でもあるわけだ。鳥と潟海(かたうみ)(注7)の記念碑、いや鳥のための墓標というべきだろうか」
社長は湾口に目をそそいだ。つかのま夢みるような表情になって両手をひろげ、二、三歩海へむかって歩いた。そこで腕を上下にゆるく動かした。男は社長が鳥に化身したのではないかと一瞬いぶかった。社長はひろげた両腕で潟海を胸に抱きとるような身ぶりをして、陽気に叫んだ。
⑤ 「海が埋めたてられても写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね」
⑥ 男はあの日、砂丘の端で社長がしたように両腕を水平にひろげた。―――写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね。D なんという芝居気たっぷりのせりふだったろう、と男はにがにがしく回想した。
二回目の会見まで社長はのり気だった。判型や紙質の打合(うちあわ)せをした。三回目は不在で、四回目には営業部の係長が応対した。社長から何もきいていないという。噂(うわさ)によれば新式のカラー印刷用機械を購入したために多額の不渡り(注8)を出して、工場は債権者団体に差しおさえられているという。よくあることだ、と男は思った。またしても一つの潮流がむきをかえただけのことだ。
⑦ 焚火にくべた木の根は長い間、海中にあったらしく表面が水と砂の摩擦でなめらかになっていた。樹皮はむけてしまい肌は色褪(いろあ)せて女の腰のように白い。空樽は乾ききっていてタールのこびりついていない部分はほとんど煙もあげず透明な焰(ほのお)をゆらめかせた。
男はぼんやりと焚火に目をそそいでいる。火というものは人を夢見心地にするもののようで、うずくまって焚火の中心を見まもっていると、いつのまにか焰に溶けこみ火と一体になり、心がからっぽになるようである。時間は停止し、永遠そのものであるような海のざわめきと葦のそよぎしか聞(きこ)えない。男はしかし眠りこんだのではなかった。時おり火から目を離してカメラをのぞいた。潮がひき、露(あら)わになった干潟には見なれた鳥がおり、見なれない鳥もいた。新しい特徴をもった鳥をみつけても、男はもうシャッターをおさなかった。望遠レンズでつぶさに観察するにとどめた。
「きょうが終りだ」
ひとりごとをいうのは癖になっていた。砂の上にはさっき計算した数字があった。百日の休暇を自分は有効にすごしたのだ、と思った。(渡りの途中で、鳥も翼を休めるのだから)水辺に墜落した鳥(注9)を思いだした。E 自分は群から脱落した鳥の一羽かもしれぬ。しかしまだ飛ぶことはできる。写真集がふいになったとわかっても男は河口へ通うことをやめなかった。初めからそれほど期待はしていなかったのだ。退職金はまだいくらか残っていた。しかしそれも12月19日がぎりぎりの日限であった。明日から新しい生活のために都会へ出発することになる。
男はカスピアン・ターン(注10)が回復するのをひたすら待ちつづけた。治癒はおそく餌もはかばかしく食べない日があった。ようやく傷は癒え、身動きが活撥(かっぱつ)になった。夜ふけしきりに箱の中でもがいて短い啼(な)き声をもらすことがあった。これをきょう河口へ運んで放すつもりだったのだ。帰ったら船着場(ふなつきば)のあたりででも離してやろうと男は考えた。
(注1)タガ ―― 樽などにはめて、外側を堅く締め固めるための竹などで作った輪。
(注2)タール ―― 石炭や木材などを空気に触れさせないで蒸し焼きにしたときにできる、可燃性の黒い液体。
(注3)ハイイロヒレアシシギ ―― 渡り鳥の一種。直後の「ヒレアシシギ」も同じ種の鳥を指す。
(注4)イワミセキレイ ―― 渡り鳥の一種。
(注5)羊角湾 ―― 熊本県天草市にある湾。本作が発表された時期から1997年まで干拓事業が行われた。
(注6)ネガ ―― ネガフィルムのこと。写真の原板。
(注7)潟海 ―― 遠浅の海岸。
(注8)不渡り ―― 期限になっても支払いができない手形や小切手のこと。
(注9)水辺に墜落した鳥 ―― 男は以前、墜落した鳥を観察中に目にした。男が保護している鳥とは異なる。
(注10)カスピアン・ターン ―― カモメ科の渡り鳥の一種。男が保護している鳥。
下線部E「自分は群から脱落した鳥の一羽かもしれぬ。しかしまだ飛ぶことはできる。」とあるが、このときの男の心情の説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問17(第2問(小説) 問5) (訂正依頼・報告はこちら)
① 男は空を見あげた。
太陽は依然として雲に隠れている。夜明けから朝をすぎても、男のまわりに漂っている光線はつねに午後のそれであった。男は両手をこすり合(あわ)せた。寒気は朝よりもきびしくなった。漂着物のうちで燃えそうなものはひろいつくしていた。男の目が板小屋にとまった。(もっと早く気がつけば良かった)足早に板小屋を一巡した。砂丘の前方にノリ養殖場があったころ、見張り番が寝泊(ねとま)りした場所と思われた。養殖場が河口の北に移ってからは見すてられたのだ。潮流が変(かわ)ってノリがここでは栽培できなくなったのだ。
② 男は小屋の空樽(あきだる)を焚火(たきび)の方へ運びあげた。頭上にもちあげて投げおろす。タガ(注1)がゆるんだ。靴で二、三回けると板はばらばらになった。(潮流ってやつはいつかは変るのだ)こわれた樽を焚火にくべた。こびりついたタール(注2)が溶けて刺戟(しげき)的ないい匂いを放った。火が継続的に燃えることを見とどけておいてカメラにとりついた。
水は沖へしりぞきつつあった。レンズでのぞくまでもなくそれがわかった。ココア色の泥が水の下からあらわれ、しだいにその面積を拡大してゆく。
③ 水に追われて葦原(あしはら)へにげた鳥たちが群(むれ)をなして干潟へ舞いもどり、泥の中にひそむ生物をあさり始めた。小エビや貝の肉は鳥の好物なのである。
一羽ずつ望遠レンズの視野におさめて観察した。見なれた鳥である。
④ ひとわたり鳥をしらべ終(おわ)ると、ふたたびノートに没頭した。1st Nov.という日付のページはハイイロヒレアシシギ(注3)を見た記録で埋められていたが、その日、ここを訪れたのはヒレアシシギではなかった。湾口で操業する漁船団を望遠レンズで見物するのに夢中になっていたので、その男が近づくのを知らなかった。うしろに人の気配がし、声をかけられて初めて気がついた。
「何か見えるかね」
五十代の半ばに見えた。以前から会いたかった、といい、マニキュアをした指でタバコをつまみ出してすすめた。その人物は男が勤めていた放送局のある町で、かなり大きい印刷会社を経営していた。局内の印刷物を一手に引きうけていた関係で、何回か顔を合せたことがあるけれど、二人だけで話すのは初めてだった。
「こないだ局へ行ってあなたのことを尋ねたらやめちまったときいたんで少しびっくりしたよ。どんな事情にしろ会社をやめてまで鳥の撮影にうちこむのはちかごろ見上げた生き方だとわたしは思ったな」
A 男は鼻白んだ。会社をやめたのは鳥のためではなかった。しかしそれを説明するのも億劫(おっくう)だった。
「二、三度お宅にうかがったけれど留守のようで、もっとも毎日ここへ出かけて来てたんなら会えないわけだ」
写真集を出したい、と訪問者はいった。それは結構だ、と男は如才なく相槌(あいづち)をうった。
「いや、あんたの写真集を出したいといってるんだよ、わたしは」
B 説明してもらいたい、と男はいった。社長はうむ、といってカメラをのぞき、干潟におりた鳥の群をしばらく黙って観察した。カメラから目を離さずに、
「あれはどうもイワミセキレイ(注4)のようだね」
男は自分の双眼鏡で確かめ社長の言葉を肯定した。社長は溜息(ためいき)まじりに、
「イワミセキレイが今じぶんねえ」
このごろの鳥は季節をえらばなくなったのだと男は答えた。
「そうなんだよ、11月にならないと見られないユリカモメが10月初旬にちらほらしたり、それから1月の白鳥が5月ごろ空を飛ぶのをわたしは見たことがある。なにしろめちゃくちゃなんだ」
「コースをそれる鳥も目立ちますね」
この人物が、「郷土の散歩」というシリーズで放送する15分のローカル番組に登場して、自分の趣味である鳥の生態観察について語ったことを思い出した。二年ほど前である。鳥は狂ってるのだ、と社長はいった。
「そしてだれも鳥の世界でおこっている異変に気づかない」
社長は昂奮(こうふん)した。C 砂丘の上を歩きまわりながらしゃべりつづけた。
「四、五日前にコウノトリを見たよ」
コウノトリはとっくに絶滅したと思っていた、と男がいうと、10月の季節風にのって大陸から渡って来たのだろう、と社長はいった。「どうですか」と社長は干潟をさして、
「ここは鳥にしてみれば地上の楽園だよ、それが五年以内に埋めたてられて石油コンビナートか何かそんなものになっちまう。渡り鳥もそうなったら寄りつかないね。そこでひとつどうですか、ここへやって来る鳥たちの記録写真を一冊くらい残してやってもいいと思うんだが、天草の羊角湾(ようかくわん)(注5)ね」
社長はあっちかな、いやこっちの見当かといって湾口を指した。
「羊角湾を埋めたてて淡水湖にしちまったらさっぱり鳥が寄りつかなくなったんだそうだ」
かなりネガ(注6)はたまっている、と男はいった。印刷はまかせてくれ、と社長はいった。
「グラビアにはうちとしても自信があるし、取次店にも話をつけるからその点はご心配なく。カラー印刷の機械も入れたばかりでね、新しい機械を」
刊行するとしていつごろの予定だろうかと男はきいた。
「そうだな、12月いっぱいで一応とりだめたネガを整理してもらいたいね。印刷はいつからでもかかれるから」
買う人がいるだろうか、と男は懸念した。
「長期間のうちにぼつぼつ売れたらいいじゃないか。それよりあんたの手間に見合うだけの印税をたっぷり支払えたらいいと思うんだが」
男はあわてて印税をあてにしてはいないこと、それより自分の写真集をもつことができたら倖(しあわ)せだといった。
「あなたの写真集でもあり鳥たちの写真集でもあるわけだ。鳥と潟海(かたうみ)(注7)の記念碑、いや鳥のための墓標というべきだろうか」
社長は湾口に目をそそいだ。つかのま夢みるような表情になって両手をひろげ、二、三歩海へむかって歩いた。そこで腕を上下にゆるく動かした。男は社長が鳥に化身したのではないかと一瞬いぶかった。社長はひろげた両腕で潟海を胸に抱きとるような身ぶりをして、陽気に叫んだ。
⑤ 「海が埋めたてられても写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね」
⑥ 男はあの日、砂丘の端で社長がしたように両腕を水平にひろげた。―――写真集が出来たらその中に鳥も海も生きることになるんだよね。D なんという芝居気たっぷりのせりふだったろう、と男はにがにがしく回想した。
二回目の会見まで社長はのり気だった。判型や紙質の打合(うちあわ)せをした。三回目は不在で、四回目には営業部の係長が応対した。社長から何もきいていないという。噂(うわさ)によれば新式のカラー印刷用機械を購入したために多額の不渡り(注8)を出して、工場は債権者団体に差しおさえられているという。よくあることだ、と男は思った。またしても一つの潮流がむきをかえただけのことだ。
⑦ 焚火にくべた木の根は長い間、海中にあったらしく表面が水と砂の摩擦でなめらかになっていた。樹皮はむけてしまい肌は色褪(いろあ)せて女の腰のように白い。空樽は乾ききっていてタールのこびりついていない部分はほとんど煙もあげず透明な焰(ほのお)をゆらめかせた。
男はぼんやりと焚火に目をそそいでいる。火というものは人を夢見心地にするもののようで、うずくまって焚火の中心を見まもっていると、いつのまにか焰に溶けこみ火と一体になり、心がからっぽになるようである。時間は停止し、永遠そのものであるような海のざわめきと葦のそよぎしか聞(きこ)えない。男はしかし眠りこんだのではなかった。時おり火から目を離してカメラをのぞいた。潮がひき、露(あら)わになった干潟には見なれた鳥がおり、見なれない鳥もいた。新しい特徴をもった鳥をみつけても、男はもうシャッターをおさなかった。望遠レンズでつぶさに観察するにとどめた。
「きょうが終りだ」
ひとりごとをいうのは癖になっていた。砂の上にはさっき計算した数字があった。百日の休暇を自分は有効にすごしたのだ、と思った。(渡りの途中で、鳥も翼を休めるのだから)水辺に墜落した鳥(注9)を思いだした。E 自分は群から脱落した鳥の一羽かもしれぬ。しかしまだ飛ぶことはできる。写真集がふいになったとわかっても男は河口へ通うことをやめなかった。初めからそれほど期待はしていなかったのだ。退職金はまだいくらか残っていた。しかしそれも12月19日がぎりぎりの日限であった。明日から新しい生活のために都会へ出発することになる。
男はカスピアン・ターン(注10)が回復するのをひたすら待ちつづけた。治癒はおそく餌もはかばかしく食べない日があった。ようやく傷は癒え、身動きが活撥(かっぱつ)になった。夜ふけしきりに箱の中でもがいて短い啼(な)き声をもらすことがあった。これをきょう河口へ運んで放すつもりだったのだ。帰ったら船着場(ふなつきば)のあたりででも離してやろうと男は考えた。
(注1)タガ ―― 樽などにはめて、外側を堅く締め固めるための竹などで作った輪。
(注2)タール ―― 石炭や木材などを空気に触れさせないで蒸し焼きにしたときにできる、可燃性の黒い液体。
(注3)ハイイロヒレアシシギ ―― 渡り鳥の一種。直後の「ヒレアシシギ」も同じ種の鳥を指す。
(注4)イワミセキレイ ―― 渡り鳥の一種。
(注5)羊角湾 ―― 熊本県天草市にある湾。本作が発表された時期から1997年まで干拓事業が行われた。
(注6)ネガ ―― ネガフィルムのこと。写真の原板。
(注7)潟海 ―― 遠浅の海岸。
(注8)不渡り ―― 期限になっても支払いができない手形や小切手のこと。
(注9)水辺に墜落した鳥 ―― 男は以前、墜落した鳥を観察中に目にした。男が保護している鳥とは異なる。
(注10)カスピアン・ターン ―― カモメ科の渡り鳥の一種。男が保護している鳥。
下線部E「自分は群から脱落した鳥の一羽かもしれぬ。しかしまだ飛ぶことはできる。」とあるが、このときの男の心情の説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
- 一人きりで鳥の観察や撮影にふけっていることに疎外感を覚えながらも、自分を奮い立たせて、とどまることを知らない渡り鳥のように新しい仕事のために出発しようとしている。
- 出発期限の間際まで休暇を取ることに後ろめたさを感じながらも、一時の休息を終えて力を蓄えた鳥が旅立つように、会社に頼ることなく新たな仕事を求めて出発しようとしている。
- 仕事を辞め河口に通う日々を送っていることに挫折感を覚えながらも、傷ついた鳥もやがて回復するように、自分にもまだ活力があることを確かめ新たな生活に向けて出発しようとしている。
- 写真集の企画が頓挫し社会で評価される機会を奪われたことに喪失感を覚えながらも、未練がましく鳥を撮影することをやめ、次の仕事のために新たな土地に向けて出発しようとしている。
- 渡り鳥を観察し他人から離れて孤独に生きることにむなしさを覚えながらも、やはり一人で生きる道を求めなければならないと自分に言い聞かせ、新たな土地に向けて出発しようとしている。
正解!素晴らしいです
残念...
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