大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問4 (世界史B(第1問) 問4)

このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。

問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問4(世界史B(第1問) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)

歴史の中の女性について述べた次の文章を読み、後の問いに答えよ。

ある大学のゼミで、学生たちが、「中国史の中の女性」というテーマで議論をしている。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)

藤田:次の資料は、顔之推(がんしすい)が6世紀後半に著した『顔氏家訓(がんしかくん)』という書物の一節で、彼が見た分裂時代の女性の境遇について述べています。

資料
南方の女性は、ほとんど社交をしない。婚姻を結んだ家同士なのに、十数年経っても互いに顔を合わせたことがなく、ただ使者を送って贈り物をし、挨拶を交わすだけで済ませるということさえある。
これに対し、北方の習慣では、家はもっぱら女性によって維持される。彼女らは訴訟を起こして是非を争い、有力者の家を訪れては頼み込みをする。街路は彼女たちが乗った車であふれ、役所は着飾った彼女たちで混雑する。こうして彼女たちは息子に代わって官職を求め、夫のためにその不遇を訴える。これらは、平城に都が置かれていた時代からの習わしであろうか。

山口:中国には、「牝鶏(めんどり)が朝(あした)に鳴く」ということわざがあり、女性が国や家の事に口出しするのは禁忌であったと聞きます。資料の後半に書かれているように、女性が活発な状況が現れた背景は、いったい何でしょうか。
藤田:著者の推測に基づくなら、( イ )に由来すると考えられます。
中村:あっ!ひょっとして、この時代の北方の状況が、中国に女性皇帝が出現する背景となったのでしょうか。
教授:中村さんがそのように考える根拠は何ですか。
中村:ええと、それは( ウ )からです。
教授:ほう、よく知っていますね。
山口:資料にあるような女性の活発さが、後に失われてしまうのはなぜでしょうか。
藤田:b この時代以降の儒学の普及とともに、資料中の南方の女性のような振る舞いが模範的とされていったためと考えられます。

文章中の空欄イに入れる語句として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • 西晋を滅ぼした匈奴の風習
  • 北魏を建国した鮮卑の風習
  • 貴族が主導した六朝文化
  • 隋による南北統一

次の問題へ

正解!素晴らしいです

残念...

この過去問の解説 (1件)

01

「北魏を建国した鮮卑の風習」 が最も適当です。

 

北朝を支えた鮮卑(せんぴ)は遊牧系の民族で、女性も馬に乗り、政治や交渉に関わりました。

北魏の都が平城(現在の大同)にあった頃、その生活様式が漢人社会へ広がり、女性が訴訟や官職の斡旋に関わる光景が生まれたと考えられます。

選択肢1. 西晋を滅ぼした匈奴の風習

匈奴は4世紀初めに西晋を圧迫しましたが、北魏成立(5世紀)より前の出来事です。

また、平城時代に直接つながる社会習慣としては鮮卑ほど影響を残していません。

選択肢2. 北魏を建国した鮮卑の風習

鮮卑社会では男女が協力して遊牧生活を営み、女性が公的な場に出ることも珍しくありませんでした。

北魏は鮮卑の政治文化を基盤にしており、平城時代の北方で女性が活発に動いたという資料の描写とよく一致します。

選択肢3. 貴族が主導した六朝文化

六朝文化は南朝の貴族文化であり、資料前半に示された「南方の女性が社交を避ける」姿に近い要素が強いです。

北方の活発な女性像を説明する根拠にはなりません。

選択肢4. 隋による南北統一

隋の統一は589年で、『顔氏家訓』に描かれた北魏・東魏・北斉など分裂期の習俗より後の時代です。

統一自体が女性の社会参加を促したわけではなく、資料の時代設定ともずれがあります。

まとめ

資料の「平城に都が置かれていた時代からの習わし」という手がかりは北魏を指します。

鮮卑の風習によって、北方では女性が訴訟や交渉で重要な役割を担いました。

その後、儒学の浸透により南方型の控えめな振る舞いが理想とされ、女性の活動は次第に制限されていきます。

この流れを押さえると、中国史における女性像の変化が理解しやすくなります。

参考になった数0