大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問5 (世界史B(第1問) 問5)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問5(世界史B(第1問) 問5) (訂正依頼・報告はこちら)

歴史の中の女性について述べた次の文章を読み、後の問いに答えよ。

ある大学のゼミで、学生たちが、「中国史の中の女性」というテーマで議論をしている。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)

藤田:次の資料は、顔之推(がんしすい)が6世紀後半に著した『顔氏家訓(がんしかくん)』という書物の一節で、彼が見た分裂時代の女性の境遇について述べています。

資料
南方の女性は、ほとんど社交をしない。婚姻を結んだ家同士なのに、十数年経っても互いに顔を合わせたことがなく、ただ使者を送って贈り物をし、挨拶を交わすだけで済ませるということさえある。
これに対し、北方の習慣では、家はもっぱら女性によって維持される。彼女らは訴訟を起こして是非を争い、有力者の家を訪れては頼み込みをする。街路は彼女たちが乗った車であふれ、役所は着飾った彼女たちで混雑する。こうして彼女たちは息子に代わって官職を求め、夫のためにその不遇を訴える。これらは、平城に都が置かれていた時代からの習わしであろうか。

山口:中国には、「牝鶏(めんどり)が朝(あした)に鳴く」ということわざがあり、女性が国や家の事に口出しするのは禁忌であったと聞きます。資料の後半に書かれているように、女性が活発な状況が現れた背景は、いったい何でしょうか。
藤田:著者の推測に基づくなら、( イ )に由来すると考えられます。
中村:あっ!ひょっとして、この時代の北方の状況が、中国に女性皇帝が出現する背景となったのでしょうか。
教授:中村さんがそのように考える根拠は何ですか。
中村:ええと、それは( ウ )からです。
教授:ほう、よく知っていますね。
山口:資料にあるような女性の活発さが、後に失われてしまうのはなぜでしょうか。
藤田:b この時代以降の儒学の普及とともに、資料中の南方の女性のような振る舞いが模範的とされていったためと考えられます。

文章中の空欄ウに入れる文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • 唐を建てた一族が、北朝の出身であった
  • 唐で、政治の担い手が、古い家柄の貴族から科挙官僚へ移った
  • 隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた
  • 北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施された

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この過去問の解説 (1件)

01

空欄ウには、

「唐を建てた一族が、北朝の出身であった」 が入ります。


唐王朝を創設した李氏は北朝(北周)の重臣として台頭しており、鮮卑系を中心とした北方文化の影響を受けていました。

北方では女性が政治や社会で活発に行動する慣習が比較的残っていたため、後に武則天のような女性皇帝誕生の土壌となったと考えられます。

選択肢1. 唐を建てた一族が、北朝の出身であった

李淵(のちの高祖)は北周の名門武川鎮軍閥に属し、鮮卑系貴族文化を背負って隋末に挙兵しました。

北朝系社会では資料に示されるように女性の公的活動が目立ち、これが武則天出現の背景と結び付きます。

選択肢2. 唐で、政治の担い手が、古い家柄の貴族から科挙官僚へ移った

科挙官僚の台頭は事実ですが、女性皇帝誕生との直接因ではありません。

空欄ウの説明には不適当です。

選択肢3. 隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた

経済・交通上の意義を示す内容で、北方女性の社会進出や女性皇帝との関係は薄いです。

選択肢4. 北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施された

北魏の漢化は南北文化融合を進めましたが、武則天の誕生理由を説明する直接的材料にはなりません。

まとめ

分裂時代の北方では、遊牧・軍事中心の社会構造から女性も訴訟や交渉に積極的でした。

李氏が北朝系であった唐では、こうした伝統が漢民族中心の儒教的価値観と交錯し、武則天の即位という特異な出来事を支える一因となりました。

空欄ウには北朝系出自を示す文が最も適切です。

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