大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問10 (世界史B(第2問) 問4)
問題文
次の資料1・2は、ファーティマ朝のカリフについて、後の王朝の二人の歴史家がその正統性を論じた文章の概略である。
資料1
私はファーティマ朝のカリフをこの『カリフたちの歴史』では採り上げなかった。彼らがクライシュ族ではないため、b カリフの資格がないからである。
ある法官によると、彼らの王朝の開祖が北アフリカで王朝を建てた時、アリーの子孫であると自称したが、系譜学者たちは誰一人彼を知らなかったという。また伝えられるところによると、ファーティマ朝の支配者の一人が、( ウ )の支配者に対して侮辱する手紙を送った時、( ウ )の支配者は、「あなたは私たちウマイヤ家の系譜を知っていて、私たちのことを侮辱した。しかし、私たちはあなたたちのことなど知らない」と返答したという。
このようなことから、私は彼らをカリフと認めず、記さなかったのである。
資料2
多くの歴史家に受け取られている愚かな情報の中には、ファーティマ朝カリフがアリーの子孫であることを否定するものがあるが、それは競争相手を非難してアッバース朝カリフに取り入る目的で作られたものである。アッバース朝カリフに仕える人々にとっては、ファーティマ朝にシリアやエジプトを奪われたまま奪還できない無能力を取り繕うのに好都合だったからである。
しかし、アッバース朝カリフがファーティマ朝成立当初に地方総督へ送った手紙の中には、ファーティマ朝カリフの系譜について言及があり、その手紙が、彼らがアリーの子孫であるということをはっきりと証明している。
カリフは、中世のムスリムによって、イスラーム共同体の指導者としてただ一人がその地位に就くとみなされていた。しかし10世紀にファーティマ朝や( ウ )の支配者もカリフを称し、複数のカリフが長期間並立したことで、ムスリムが従うべき正しい指導者は誰かという問題は、さらに複雑なものとなった。
資料1・2の著者を含め、スンナ派の学者たちは、カリフになるための資格に関して、ムスリムであることに加えて、7世紀初頭にメッカに住んでいたクライシュ族の子孫であることも必要な条件であると考えていた。ここで言及されているウマイヤ家もアリー家も、そしてアッバース家も、クライシュ族である。
文章中の空欄ウの王朝が10世紀に支配していた半島の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問10(世界史B(第2問) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)
次の資料1・2は、ファーティマ朝のカリフについて、後の王朝の二人の歴史家がその正統性を論じた文章の概略である。
資料1
私はファーティマ朝のカリフをこの『カリフたちの歴史』では採り上げなかった。彼らがクライシュ族ではないため、b カリフの資格がないからである。
ある法官によると、彼らの王朝の開祖が北アフリカで王朝を建てた時、アリーの子孫であると自称したが、系譜学者たちは誰一人彼を知らなかったという。また伝えられるところによると、ファーティマ朝の支配者の一人が、( ウ )の支配者に対して侮辱する手紙を送った時、( ウ )の支配者は、「あなたは私たちウマイヤ家の系譜を知っていて、私たちのことを侮辱した。しかし、私たちはあなたたちのことなど知らない」と返答したという。
このようなことから、私は彼らをカリフと認めず、記さなかったのである。
資料2
多くの歴史家に受け取られている愚かな情報の中には、ファーティマ朝カリフがアリーの子孫であることを否定するものがあるが、それは競争相手を非難してアッバース朝カリフに取り入る目的で作られたものである。アッバース朝カリフに仕える人々にとっては、ファーティマ朝にシリアやエジプトを奪われたまま奪還できない無能力を取り繕うのに好都合だったからである。
しかし、アッバース朝カリフがファーティマ朝成立当初に地方総督へ送った手紙の中には、ファーティマ朝カリフの系譜について言及があり、その手紙が、彼らがアリーの子孫であるということをはっきりと証明している。
カリフは、中世のムスリムによって、イスラーム共同体の指導者としてただ一人がその地位に就くとみなされていた。しかし10世紀にファーティマ朝や( ウ )の支配者もカリフを称し、複数のカリフが長期間並立したことで、ムスリムが従うべき正しい指導者は誰かという問題は、さらに複雑なものとなった。
資料1・2の著者を含め、スンナ派の学者たちは、カリフになるための資格に関して、ムスリムであることに加えて、7世紀初頭にメッカに住んでいたクライシュ族の子孫であることも必要な条件であると考えていた。ここで言及されているウマイヤ家もアリー家も、そしてアッバース家も、クライシュ族である。
文章中の空欄ウの王朝が10世紀に支配していた半島の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
- トルコ系の人々が、この半島においてルーム=セルジューク朝を建てた。
- ムラービト朝が、この半島における最後のイスラーム王朝となった。
- ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した。
- この半島で成立したワッハーブ王国が、ムハンマド=アリーによって一度滅ぼされた。
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この過去問の解説 (1件)
01
最も適当な選択肢は、
「ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した。」 です。
ウに当たる王朝は10世紀のイベリア半島を支配したウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)です。
イベリア半島ではその後も北アフリカの王朝がたびたび介入し、12世紀にはベルベル系のムワッヒド朝が大軍で渡来してキリスト教勢力と激しく戦いました。
この歴史を正しく説明しているのが上の文です。
ルーム=セルジューク朝はトルコ人がアナトリア(小アジア)に建てた政権で、イベリア半島とは場所が違います。
ムラービト朝は11〜12世紀にイベリアへ進出しましたが、最後のイスラーム勢力はナスル朝(グラナダ王国)です。
ムワッヒド朝(12〜13世紀)はベルベル人の王朝で、北アフリカからイベリアへ渡ってセビリャを都とするなど強勢を誇りました。
イベリア半島の後ウマイヤ朝との地理的連続を踏まえた説明として適切です。
ワッハーブ王国(サウード家)はアラビア半島の出来事で、イベリア半島には関係しません。
10世紀のイスラーム世界では、バグダードのアッバース朝・カイロへ拡大したファーティマ朝・コルドバの後ウマイヤ朝という三つのカリフ権力が並立しました。
後ウマイヤ朝が治めたイベリア半島にはのちに北アフリカのベルベル王朝(ムラービト朝→ムワッヒド朝)が相次いで進出し、イスラーム勢力とキリスト教勢力との攻防が続きます。
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