大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問7 (世界史B(第1問) 問7)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問7(世界史B(第1問) 問7) (訂正依頼・報告はこちら)

世界史上の宗教の役割について述べた次の文章Cを読み、後の問いに答えよ。

C 次の資料は、パイシー=ヒレンダルスキという人物の著作の一部である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)

資料
自分たちブルガリア民族について知ろうとせず、外国のやり方や外国語を頼みとして自分自身のブルガリア語を大切にせず、ギリシア語を読んだり話したりすることを学び、ブルガリア人と呼ばれることを恥ずかしいと思っている人がいる。ああ、無分別で愚かな人よ。なぜ、ブルガリア人と呼ばれることを恥じ、自分自身の言語で話したり読んだりしないのか。それとも、ブルガリア人は帝国も国家も持たなかったというのか。

著者は、現在のブルガリアの地で生まれたギリシア正教会の聖職者である。18世紀半ばに書かれたこの著作は、オスマン帝国内で長年にわたりギリシア正教徒であることを意識してきたブルガリアのキリスト教徒たちによる民族復興運動の契機となるものとして、ブルガリア史の中に位置づけられている。著者は資料の中で、彼らが自らの言語や歴史に関心を持たない状況を嘆いているが、この著作がブルガリア出身のキリスト教聖職者などの知識人を主たる対象として書かれたものとはいえ、bブルガリア人としての明確な民族意識が希薄であったことは、ブルガリアの多くのキリスト教徒に当てはまると考えられる。
ブルガリアでは19世紀後半になると民族運動が本格化し、ヨーロッパの大国の強い影響を受けつつ展開していった。具体的には、( カ )と呼ばれる条約において、オスマン帝国内の自治国の地位がヨーロッパ諸国により承認され、さらに( キ )の年に、ブルガリアはオスマン帝国からの独立を宣言するに至った。
このブルガリアの事例のように、オスマン帝国統治下のバルカンでは、18世紀まで、キリスト教徒の間に明確な民族意識は必ずしも見られず、民族に基づくオスマン帝国からの自立の動きが現れるのは19世紀以降のことであった。

下線部bの背景について述べた次の文あといの正誤の組合せとして正しいものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。

あ  オスマン帝国においては、イスラーム教徒とキリスト教徒は法的に平等であったため、ブルガリアのキリスト教徒の多くはオスマン帝国臣民としてのアイデンティティ(帰属意識)をより強く持っていたと考えられる。
い  オスマン帝国は、非イスラーム教徒に対し、宗教や宗派に基づく共同体を単位として自治を与え統治していたため、ブルガリアのキリスト教徒の多くはギリシア正教会の共同体の一員としてのアイデンティティ(帰属意識)をより強く持っていたと考えられる。
  • あ ― 正  い ― 正
  • あ ― 正  い ― 誤
  • あ ― 誤  い ― 正
  • あ ― 誤  い ― 誤

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この過去問の解説 (1件)

01

「あ―誤 い―正」の組合せが正しいです。

 

あ(イスラーム教徒とキリスト教徒は法的に平等だった)

オスマン帝国では、イスラーム法(シャリーア)に基づきムスリムが優位に置かれ、非イスラーム教徒(ズィンミー)は人頭税(ジズヤ)を課されるなど法的に平等ではありません

したがって、キリスト教徒が「オスマン臣民としてのアイデンティティ」を優先したという説明は成り立ちません。
誤り

 

い(宗派を単位とする自治=ミッレト制度)

オスマン帝国は、正教徒・アルメニア教徒・ユダヤ教徒などを宗教共同体(ミッレト)ごとに統治しました。

ブルガリアの正教徒は「ローマ帝国の後継」を自認するギリシア正教会(コンスタンティノープル総主教座)に編入され、宗教面でギリシアの指導を受けていました。

そのため民族より宗派=ギリシア正教の一員という意識が強く、ブルガリア語や民族史への関心が薄かったことが資料の嘆きにつながります。
正しい

選択肢1. あ ― 正  い ― 正

誤りです。

選択肢2. あ ― 正  い ― 誤

誤りです。

選択肢3. あ ― 誤  い ― 正

正しい選択肢です。

選択肢4. あ ― 誤  い ― 誤

誤りです。

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