大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問8 (世界史B(第1問) 問8)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問8(世界史B(第1問) 問8) (訂正依頼・報告はこちら)

世界史上の宗教の役割について述べた次の文章Cを読み、後の問いに答えよ。

C 次の資料は、パイシー=ヒレンダルスキという人物の著作の一部である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)

資料
自分たちブルガリア民族について知ろうとせず、外国のやり方や外国語を頼みとして自分自身のブルガリア語を大切にせず、ギリシア語を読んだり話したりすることを学び、ブルガリア人と呼ばれることを恥ずかしいと思っている人がいる。ああ、無分別で愚かな人よ。なぜ、ブルガリア人と呼ばれることを恥じ、自分自身の言語で話したり読んだりしないのか。それとも、ブルガリア人は帝国も国家も持たなかったというのか。

著者は、現在のブルガリアの地で生まれたギリシア正教会の聖職者である。18世紀半ばに書かれたこの著作は、オスマン帝国内で長年にわたりギリシア正教徒であることを意識してきたブルガリアのキリスト教徒たちによる民族復興運動の契機となるものとして、ブルガリア史の中に位置づけられている。著者は資料の中で、彼らが自らの言語や歴史に関心を持たない状況を嘆いているが、この著作がブルガリア出身のキリスト教聖職者などの知識人を主たる対象として書かれたものとはいえ、bブルガリア人としての明確な民族意識が希薄であったことは、ブルガリアの多くのキリスト教徒に当てはまると考えられる。
ブルガリアでは19世紀後半になると民族運動が本格化し、ヨーロッパの大国の強い影響を受けつつ展開していった。具体的には、( カ )と呼ばれる条約において、オスマン帝国内の自治国の地位がヨーロッパ諸国により承認され、さらに( キ )の年に、ブルガリアはオスマン帝国からの独立を宣言するに至った。
このブルガリアの事例のように、オスマン帝国統治下のバルカンでは、18世紀まで、キリスト教徒の間に明確な民族意識は必ずしも見られず、民族に基づくオスマン帝国からの自立の動きが現れるのは19世紀以降のことであった。

文章中の空欄カに入れる条約について述べた文う~おと、空欄キに入れる語句X・Yとの組合せとして正しいものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。

(カ)に入れる条約について述べた文
う  黒海が中立化された。
え  オスマン帝国がハンガリーを失った。
お  オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得した。

(キ)に入れる語句
X  青年トルコ革命の勃発
Y  ミドハト憲法の停止
  • う ― X
  • う ― Y
  • え ― X
  • え ― Y
  • お ― X
  • お ― Y

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この過去問の解説 (1件)

01

正しい組み合わせは「おーX」です。

 

【条約(カ)の検討】

・う(黒海の中立化)

1856年のパリ条約の内容です。

ブルガリアの自治承認とは無関係です。

 

・え(オスマン帝国がハンガリーを失う) 

1699年カルロヴィッツ条約の内容で時代が離れています。

 

・お(オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を得る)

1878年のベルリン条約の内容です。

この条約でブルガリア自治公国がヨーロッパ列強に承認されました。
→カ=ベルリン条約なので「お」が正しい

 

【年(キ)に起こった出来事の検討】

X:青年トルコ革命(1908年)

Y:ミドハト憲法の停止(1878年)

ブルガリアは1908年、青年トルコ革命の混乱を好機としてオスマン帝国から独立を宣言しました。
キ=X(青年トルコ革命の勃発)

選択肢1. う ― X

誤りです。

選択肢2. う ― Y

誤りです。

選択肢3. え ― X

誤りです。

選択肢4. え ― Y

誤りです。

選択肢5. お ― X

正しい組み合わせです。

選択肢6. お ― Y

誤りです。

まとめ

ベルリン条約(1878年)はブルガリア自治を国際的に認め、同じく条約でオーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を得ました。

その後、1908年の青年トルコ革命を契機にブルガリアは完全独立を宣言しました。

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