大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問41 (日本史B(第2問) 問2)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問41(日本史B(第2問) 問2) (訂正依頼・報告はこちら)

アミさんとリセさんは授業の課題として、日本古代の墓と葬儀について調べている。二人が作成しているレポートAを読み、後の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところがある。)

A アミさんが作成しているレポート
古墳は、3世紀中頃から営まれた墓制(ぼせい)である。5世紀にかけて、特徴的な形式の古墳が出現し、全国的に広まり、かつ大型化していった。しかし、6世紀になるとa古墳のあり方が変化し、7世紀初めには先述した特徴的な形式の古墳は造られなくなっていった。孝徳天皇の時代には、墓の大きさを規制し、葬送儀礼の簡素化を目指す詔(薄葬令(はくそうれい))が出された。このようなb墓・葬儀の変化は統一国家の形成への動きに対応するものである。
薄葬の思想の普及と共に注目されるのは、火葬の採用である。文献記録上、日本で最初に火葬されたのは700年の僧道昭である。この3年後には、天皇であった人物を火葬した最初の例が記録される。

下線部bに関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。

Ⅰ  生前に石人・石馬をともなった墳墓を造営したという伝承のある九州の豪族が、新羅と結んでヤマト政権の軍と戦い、敗死した。
Ⅱ  推古天皇の時代の大臣(おおおみ)の墓を造営する際、一族の境部摩理勢(さかいべのまりせ)は新しい氏族の長に反発して造営を放棄し、氏族の長によって討たれた。
Ⅲ  八色の姓を定めた天皇が没した際、皇族、様々な官人、隼人らが死者をしのぶ言葉を奉る儀礼を行った。
  • Ⅰ ― Ⅱ ― Ⅲ
  • Ⅰ ― Ⅲ ― Ⅱ
  • Ⅱ ― Ⅰ ― Ⅲ
  • Ⅱ ― Ⅲ ― Ⅰ
  • Ⅲ ― Ⅰ ― Ⅱ
  • Ⅲ ― Ⅱ ― Ⅰ

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この過去問の解説 (1件)

01

正しい年代順は「Ⅰ―Ⅱ―Ⅲ」です。

 

【出来事の内容と年代】

Ⅰ 磐井の乱(527年)
九州北部の豪族磐井は、新羅と結びヤマト政権に反抗しました。

乱後に築かれたとされる石人・石馬をともなう岩戸山古墳が伝承と一致します。

6世紀前半のできごとです。

 

Ⅱ 境部摩理勢事件(626年)
推古天皇の時代、大臣蘇我馬子のために墓を造る役目を負った一族の境部摩理勢が、新しい氏族長と対立して造営を放棄し、討たれました。

推古34年(626年)の記事です。

 

Ⅲ 天武天皇の葬儀(686年)
八色の姓(684年)を定めた天武天皇が亡くなった際、皇族や官人に加え隼人も弔詞を奉りました。

これは686年の出来事で、火葬・薄葬の思想が宮廷儀礼に取り込まれ始めた時期と重なります。

選択肢1. Ⅰ ― Ⅱ ― Ⅲ

正しい配列です。

選択肢2. Ⅰ ― Ⅲ ― Ⅱ

誤りです。

選択肢3. Ⅱ ― Ⅰ ― Ⅲ

誤りです。

選択肢4. Ⅱ ― Ⅲ ― Ⅰ

誤りです。

選択肢5. Ⅲ ― Ⅰ ― Ⅱ

誤りです。

選択肢6. Ⅲ ― Ⅱ ― Ⅰ

誤りです。

まとめ

古墳時代後期から飛鳥時代にかけ、墓制と葬送儀礼は巨大な古墳で権威を示す段階から、薄葬令や火葬の導入による簡素化へと大きく転換しました。

本問の三事例は、その変化を順にたどる手がかりになります。

初期の磐井の乱は地方豪族がまだ大規模な墳墓を築いた時期、境部摩理勢事件は豪族墓の造営をめぐる内部対立、そして天武天皇の葬儀は律令国家のもとで儀礼が整えられた段階を示しています。

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