大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問44 (日本史B(第2問) 問5)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問44(日本史B(第2問) 問5) (訂正依頼・報告はこちら)

アミさんとリセさんは授業の課題として、日本古代の墓と葬儀について調べている。二人が作成しているレポートA・Bを読み、後の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところがある。)

A アミさんが作成しているレポート
古墳は、3世紀中頃から営まれた墓制(ぼせい)である。5世紀にかけて、特徴的な形式の古墳が出現し、全国的に広まり、かつ大型化していった。しかし、6世紀になるとa古墳のあり方が変化し、7世紀初めには先述した特徴的な形式の古墳は造られなくなっていった。孝徳天皇の時代には、墓の大きさを規制し、葬送儀礼の簡素化を目指す詔(薄葬令(はくそうれい))が出された。このようなb墓・葬儀の変化は統一国家の形成への動きに対応するものである。
薄葬の思想の普及と共に注目されるのは、火葬の採用である。文献記録上、日本で最初に火葬されたのは700年の僧道昭である。この3年後には、天皇であった人物を火葬した最初の例が記録される。

B リセさんが作成しているレポート
貴族の葬儀と墓は、次第に変化していった。8世紀から9世紀前半には、c令の規定に基づいた葬儀が営まれていたが、9世紀半ばには、葬儀を簡略化する風潮が高まった。
葬送儀礼への僧侶の関与も進み、皇族や貴族の間では亡くなる前に出家する「臨終出家」のような作法が執り行われるようになった。9世紀後半になると、天皇陵のそばに寺院が建立されるようになり、11世紀頃からは、貴族の墓と寺院も近接して建てられるようになる。例えば、d藤原道長は、子孫が極楽に導かれることなどを祈願し、一族の墓地近くに浄妙(じようみよう)寺という寺院を建てている。

二人の発表を受けて、クラス全体で日本古代の墓と葬儀の歴史についてまとめた。その内容として正しいものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • ヤマト政権の支配領域の拡大にともない、九州から北海道までの各地で方形周溝墓が造られるようになった。
  • 百済の復興を目的とした唐・新羅との戦争に敗れた後、倭国で初めて墓の規模が規制された。
  • 火葬は仏教と結びついて広まり、仏教に傾倒した聖武天皇は、天皇であった人物として初めて火葬された。
  • 貴族層の墓・葬儀の変化には、極楽往生を主眼とする浄土教の影響もみられる。

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この過去問の解説 (2件)

01

正解は、「貴族層の墓・葬儀の変化には、極楽往生を主眼とする浄土教の影響もみられる。」です。


平安時代の中ごろ(10世紀後半~11世紀ごろ)に、戦乱や災害、疫病が相次いだため、「誰でも救済される」とする阿弥陀如来を信仰する浄土教が広まりました。その結果、藤原道長は浄妙寺を建立したり、頼通は平等院鳳凰堂を建てたりするなど、貴族は来世の極楽往生を求めて寺院近くに墓を建てるようになりました。

このように貴族の墓や葬儀は、

「支配者の権力を示す政治的意味を持つもの」⇒「極楽往生を願う宗教的意味を持つもの」へと変化していきました。


 

選択肢1. ヤマト政権の支配領域の拡大にともない、九州から北海道までの各地で方形周溝墓が造られるようになった。

この選択肢は誤りです。

2点の誤りポイントがあります。

①ヤマト政権期の主流は前方後円墳であるため、方形周溝墓ではありません。

②方形周溝墓は弥生末期〜古墳初期の西日本中心の墓であるため、北海道までは広がっていません。

 

選択肢2. 百済の復興を目的とした唐・新羅との戦争に敗れた後、倭国で初めて墓の規模が規制された。

この選択肢は誤りです。

薄葬令は646年に孝徳天皇の時代に発せられた令であり、墓の規模や副葬品を制限し、豪華な葬儀を禁じました。

白村江の戦いは663年であるため、「唐・新羅との戦争に敗れた」という点が誤りです。

選択肢3. 火葬は仏教と結びついて広まり、仏教に傾倒した聖武天皇は、天皇であった人物として初めて火葬された。

この選択肢は誤りです。

日本で初めて火葬された天皇は、持統天皇です。

聖武天皇の火葬は2例目です。

選択肢4. 貴族層の墓・葬儀の変化には、極楽往生を主眼とする浄土教の影響もみられる。

この選択肢は正しいです。

10世紀以降、貴族の墓や葬儀には浄土教の影響が反映されるようになりました。

一族や自らの墓の近くに寺院を建立し、阿弥陀如来を祀って極楽往生を祈願するようになりました。

葬儀には阿弥陀経などの読経が取り入れられ、豪華さより信仰心を重視するようになりました。

まとめ

古墳時代の墓は「支配者の権威」を示す巨大な墳丘墓でしたが、7世紀の薄葬令や火葬の導入を経て規模は縮小し、奈良時代には律令制に基づく葬儀へと変化しました。

10世紀以降、貴族層は浄土教の思想を取り入れ、臨終出家や阿弥陀経の読経、寺院近くでの墓建立を通じて極楽往生を願うようになり、この信仰の広まりが墓や葬儀のあり方を大きく変えました。

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02

正しい記述は、

「貴族層の墓・葬儀の変化には、極楽往生を主眼とする浄土教の影響もみられる。」です。


平安中期以降、浄土教信仰が広まり、貴族たちは来世の極楽往生を願って寺院近くに墓を設けたり、臨終出家や読経供養を行ったりしました。

藤原道長が一族の墓地そばに浄妙寺を建てた例は、その代表です。

選択肢1. ヤマト政権の支配領域の拡大にともない、九州から北海道までの各地で方形周溝墓が造られるようになった。

方形周溝墓は弥生時代末~古墳初頭に西日本を中心に広がったもので、北海道まで一気に広がったわけではありません。

またヤマト政権拡大期の主流は前方後円墳です。

選択肢2. 百済の復興を目的とした唐・新羅との戦争に敗れた後、倭国で初めて墓の規模が規制された。

墓の大きさを初めて制限した薄葬令は646年(孝徳天皇期)で、白村江敗戦(663年)より前です。

選択肢3. 火葬は仏教と結びついて広まり、仏教に傾倒した聖武天皇は、天皇であった人物として初めて火葬された。

初めて火葬された天皇は持統天皇(703年没)です。

聖武天皇(756年没)は2例目であり、記述は誤りです。

選択肢4. 貴族層の墓・葬儀の変化には、極楽往生を主眼とする浄土教の影響もみられる。

9世紀後半以降、臨終出家・寺院建立・阿弥陀信仰など、極楽往生を願う浄土教思想が貴族の葬送習俗に強く影響しました。

藤原道長の事例もこれに合致します。

まとめ

古代後期から中世初頭にかけて、貴族層は浄土教の教えを取り入れ、寺院併設墓地や念仏供養を通じて来世の安楽を願いました。

この流れが墓・葬儀の変化を促したという点が最も正確な説明となります。

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