大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問50 (日本史B(第4問) 問1)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問50(日本史B(第4問) 問1) (訂正依頼・報告はこちら)

江戸時代の自然と人との関係について述べた次の文章を読み、後の問いに答えよ。(資料は、一部省略したり、書き改めたりしたところがある。)

江戸時代は、現代に比べると手つかずの自然が多く残されていたが、それ以前から見れば「大開発時代」と呼ばれるほど、a自然の改変が進んだ時代であった。b産物や資源の調査も進み、それらを積極的に利用する議論も盛んになった。
人の手による自然の改変が特に目立ったのは山野においてであった。幕府・諸藩による建築用の樹木伐採のほか、c百姓たちによる生産や生活のための山野利用という二つの動きにより、全国の山野はその姿を大きく変えていった。その結果、17世紀後半には樹木が減少した山から大量の土砂が川に流出することが列島各地で問題になった。d河川流域を水害から守ることが、幕府や諸藩にとって重要な課題になっていく
このように17世紀は「乱伐の時代」であったが、18世紀以降、山野利用のあり方が見直され、e資源保全のあり方を意識的に考え始める時代に入った。

下線部aに関連して、江戸時代における開発について述べた文として誤っているものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • 17世紀には、各地で城下町の建設や街道の整備が行われた。
  • 17世紀には、新田開発により耕地面積が拡大した。
  • 18世紀には、銅山が衰退し、それに代わって新たな金銀山の開発が盛んになった。
  • 18世紀には、幕府による初めての蝦夷地調査が実施され、蝦夷地開発の可能性が探られた。

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この過去問の解説 (1件)

01

誤っているのは、

「18世紀には、銅山が衰退し、それに代わって新たな金銀山の開発が盛んになった。」です。


18世紀に衰えたのはむしろ金銀山であり、輸出用として重要だった銅の採掘は依然として続いていました。

選択肢1. 17世紀には、各地で城下町の建設や街道の整備が行われた。

関ヶ原合戦後、徳川家康は江戸城と江戸町を整備し、諸大名も城下町を築きました。

併せて東海道・中山道などの五街道の整備が進み、参勤交代の基盤が整いました。

正しい内容です。

選択肢2. 17世紀には、新田開発により耕地面積が拡大した。

利根川東遷による香取・行方(なめがた)新田、加賀藩の河北潟干拓など、各地で干拓や湿地の開発が活発になり、幕末には耕地面積が約1.6倍へ拡大しました。

これも正しいです。

選択肢3. 18世紀には、銅山が衰退し、それに代わって新たな金銀山の開発が盛んになった。

実際は逆です。

佐渡金山・石見銀山などの金銀産出は17世紀後半から減少し、18世紀には最盛期の数分の一に落ち込みました。

一方、足尾・別子・生野などの銅山は18世紀も操業が続き、銅は清やオランダへの主要輸出品でした。

したがってこの文は誤りです。

選択肢4. 18世紀には、幕府による初めての蝦夷地調査が実施され、蝦夷地開発の可能性が探られた。

田沼意次政権下の最上徳内(1785年)や近藤重蔵(1798年)らの派遣が、幕府の公式な蝦夷地調査の始まりでした。

その目的は資源・交易路の把握とロシア南下への備えで、18世紀後半の出来事です。

正しいと言えます。

まとめ

江戸時代は「自然改変の時代」とも呼ばれます。

17世紀は城下町整備・街道建設・新田開発が急拡大し、18世紀に入ると乱伐や水害対策、蝦夷地調査など資源管理と外的脅威への対応が重視されました。

鉱山については、金銀の衰退と銅の継続という実情を押さえておくと、産業構造の変化がよりはっきり理解できます。

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