大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和6年度(2024年度)追・再試験
問61 (日本史B(第6問) 問3)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和6年度(2024年度)追・再試験 問61(日本史B(第6問) 問3) (訂正依頼・報告はこちら)

次の文章Aは、授業の課題で銅像の歴史について調べている高校生のユウさんとリョウさんの会話である。この文章を読み、後の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところがある。)

A
ユウ:a近代の銅像で有名なのは、1897年に制作された東京の上野公園にある西郷隆盛像だね。西南戦争で官位をはく奪されていた西郷が、1889年の( ア )を機に改めて正三位を贈られたことで、銅像の建設運動が行われたんだ。この銅像は、高村光雲が中心になって制作されたんだよ。
リョウ:えっ、高村光雲って伝統的な木彫で有名な人だよね。その人が銅像を作るなんてちょっと信じられないな。
ユウ:光雲の息子である光太郎は、ロダンに師事して彫刻を学んだ( イ )と親しかったけれど、光雲も西洋の技法にも関心を持っていたんだよ。
リョウ:ふーん。西郷以外にどんな人が銅像になったの?
ユウ:例えば、伊藤博文の銅像は、1904年に神戸に建てられているよ。政治家だけでなく、江戸時代に大名だった人たちも銅像になっているよ。例えば、b井伊直弼の銅像は、有志が何度も明治政府に建設を願い出て、ようやく1909年に建てられることになったんだ
リョウ:これだけ有名な人たちが銅像になるのだったら、天皇も銅像になったの?
ユウ:いい質問だね。c明治天皇が死去した時に銅像建設の動きがあったけれど、賛否両論があって、結局、明治神宮が建設されることになったんだ

下線部bに関連して、次の史料は、井伊直弼の銅像建設の沿革を記したものである。史料1から抜き出した後の語句X・Yと、それに関して述べた後の文a~dとの組合せとして最も適当なものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。

史料1 井伊直弼像建設の沿革
一、 明治十七年一月、(中略)直弼公記念碑設計に着手し、(中略)大(おおい)に事業の進捗を見んとするに際し、突然意外の障害に遭遇し、建碑(けんぴ)は一時中止し(中略)
一、 明治三十二年三月、東京市の有志者相図り、(中略)日比谷公園は直弼公の遭難地に近接し、格好の位置なるを以(もつ)て(中略)建設の事に同意し(後略)
(『新修彦根市史』)

X 意外の障害
Y 直弼公の遭難地

a  井伊直弼も加わっていた一橋派に対し、かつて反対していた者たちの反発のことだと考えられる。
b  井伊直弼による弾圧で処罰者が出た長州藩出身者などの反発のことだと考えられる。
c  井伊直弼はこの場所で会津藩浪士に傷つけられたことにより、失脚した。
d  井伊直弼がこの場所で遭難した後、幕府は公武合体政策を進め、和宮を徳川家茂の妻に迎えた。
  • X ― a  Y ― c
  • X ― a  Y ― d
  • X ― b  Y ― c
  • X ― b  Y ― d

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