大学入学共通テスト(国語) 過去問
令和4年度(2022年度)追・再試験
問16 (第2問(小説) 問4)
問題文
この信州(注1)の町にも美術商と称する店があって、彼は散歩の折(おり)に店の中を覗(のぞ)いて歩いたが、よしなき壺(つぼ)に眼(め)をとめながら何という意地の汚なさであろうと自分でそう思った。見るべくもない陶画(注2)をよく見ようとする、何処(どこ)までも定見のない自分に惘(あき)れていた、彼はこれらのありふれた壺に、ちょっとでも心が惹かれることは、行きずりの女の人に眼を惹かれる美しさによく似ている故(ゆえ)をもって、郷愁という名称をつけていた。天保(てんぽう)(注3)から明治にかけてのざらにある染付物(そめつけもの)(注4)や、李朝(りちょう)後期(注5)のちょっとした壺の染付などに、彼はいやしく眼をさらして、思い返して何も買わずに店を立ち去るのであるが、A 何ももとめる物も、見るべき物もない折のさびしさはなかなかであった。東京では陶器の店のあるところでは時間をかけて見るべきものもあるが、田舎の町では何も眼にふれてくるものは、なかった。そういう気持(きもち)できょうも家まで帰って来ると、庭の中に一人の青年紳士が立っていた。服装もきちんとし眼のつかい方にも、この若い男の生い立ちの宜(よ)さのほどが見えた。手には相当に大きい尺(しゃく)(注6)もある箱の包(つつみ)をさげていた。かれは初めてお伺いする者だが、ちょっと見ていただきたい物があってお忙しいとは知りながらお訪ねしたといった。彼はこの青年の眼になにかに飢(う)えているものを感じて、その飢えは金銭にあることがその箱の品物と関聯(かんれん)して直(す)ぐに感じられた。彼は何を見せにお見えになったのか知らんが、僕は何も見たい物なんかないといい、これから仕事にかからなければならないから、些(ほ)んのちょっとの間だけお会いするといって、客を茶の間に通した。彼はどういう場合にも居留守をつかったことはないし、会えないといって客を突き帰すことをしなかった。二分間でも三分間でも会って非常な速度で用件を聞いてから、いい事なら即答をしてやっていた。そして率直にいま仕事中だからこれだけ会ったのだからお帰りというのがつねである。一人の訪客に女中(注7)やら娘やらが廊下を行ったり来たりして、会うとか会わんとかいう事でごたごたした気分がいやであった。会えば二三分間で済むことであり遠方から来た人も、会ってさえ貰(もら)えば素直に帰ってゆくのである。だからきょうの客にも彼は一体何を僕に見てくれというのかと訊(き)くと、客は言下に陶器を一つ見ていただきたいのですといった。陶器にも種類がたくさんにあるが何処の物ですかというと、青磁(注8)でございますといった。彼は客の眼に注意してみたが先刻庭の中で見かけた飢えたものがなくなり、穏(おだや)かになっていた。どうやら彼の穏かさは箱の中の青磁に原因した落着(おちつ)きにあるらしい、客はむしろ無造作に箱の中からもう一度包んだ絹のきれをほどきはじめた、そして黄いろい絹の包の下から、突然とろりとした濃い乳緑の青磁どくとくの釉調(ゆうちょう)(注9)が、ひろがった。絹のきれが全く除(よ)けられてしまうと、そこにはだかのB 雲鶴(うんかく)青磁(注10)が肩衝(かたつき)(注11)もなめらかに立っているのを見た。彼は陶器が裸になった羞(はず)かしさを見たことがはじめてであった。彼はこの梅瓶(メイビン)(注12)に四羽の鶴の飛び立っているのに見入った。一羽はすでに雲の上に出てようやくに疲れて、もう昇るところもない満足げなものに見えた。またの一羽は雲の中からひと呼吸(いき)に飛翔するゆるやかさが、二つならべて伸した長い脚のあたりに、ちからを抜いている状態のものであった。そして第三羽の鶴は白い雲の中から烈(はげ)しい啼(な)き声を発して、遅れまいとして熱っぽい翼際の骨のほてりまでが見え、とさかの黒い立ち毛は低く、蛇の頭のような平たい鋭さを現わしていた。最後の一羽にあるこの鳥の念願のごとき飛翔状態は、とさかと同じ列に両翼の間から伸べられた脚までが、平均された一本の走雲(はしりぐも)のような平明さをもって、はるかな雲の間を目指していた。それらの凡(すべ)ての翼は白くふわふわしていて、最後の一羽のごときは長い脚の爪までが燃えているようであった。彼はこの恐ろしい雲鶴青磁を見とどけた時の寒気(さむけ)が、しばらく背中にもむねからも去らないことを知った。客の青年は穏かな眼の中にたっぷりと構えた自信のようなものを見せて、これは本物でしょうかと取りようによっては、C 幾(いく)らかのからかい気分まで見せていった。併(しか)しそれはあまりに驚きが大きかったために、彼がそういう邪推をしてうけとったものかも知れなかった。彼は疑いもなくこれは雲鶴青磁であり逸品であるといい、これはお宅にあったものかと訊くと、終戦後にいろいろ売り払ったなかに、これが一つ最後まで売り残されていた事、売り残されているからには父が就中(なかんずく)、たいせつにしていた物だが、二年前父の死と同時にわすられて(注13)了(しま)っている事を青年はいったが、その時ふたたびこの若い男の眼に飢えたような例のがつがつしたものが、うかべられた。そして青年
は実は私個人の事情でこの青磁を売りたいのですが、時価はどれだけするものか判(わか)らないが私は三万円くらいに売りたいと思っているんです。町の美術商では二万円くらいならというんですが……私は或(あ)る随筆を読んであなたに買って貰えば余処者(よそもの)の手に渡るよりも嬉しいと思って上(あが)ったのだとかれは言った。彼は二万や三万どころではなく最低二十万円はするものだ、或(ある)いは二十五万円はするものかも知れない、それなのにたった三万円で売ろうとしているのに、彼は例の飢えたような眼に何かを突き当てて見ざるをえないし、当然うけとるべき金を知らずにうけとらないということに、正義をも併せて感じた。君はこの雲鶴梅瓶を君だけの意志で売ろうとなさるか、それとも、先刻、お話のお母上の意志も加(くわわ)って居るのかどうかと聞くと、青年は私だけの考えで母はこの話は一(いっ)さい知らないのだといい、若(も)し母が知ってもひどくは咎(とが)めない筈(はず)です、私はいま勤めていて母を見ているし、私のすることで誰も何もいいはしないと彼はいい、若し三万円が無理なら商店の付値(つけね)と私の付値の中間で結構なのです、外の人の手に渡すよりあなたのお手元にあれば、そのことで父が青磁を愛していたおもいも、そこにとどまるような気もして、あんしんしてお預けできる気がするのですと、D その言葉に真率さがあった。文学者なぞ遠くから見ていると、こんな信じ方をされているのかと思った。彼は言った、君は知らないらしいが、実は僕の見るところではこれだけの逸品は、最低二十万円はらくにするものだろう、そしてこの青磁がどんなにやすく見つもっても、十五万円はうけとるべき筈です、決して避暑地なぞで売る物ではなく一流の美術商に手渡しすべき物です、ここまでお話したからには、僕は決して君を騙(だま)すような買い方をする事は出来ない、お父上が買われた時にも相当以上に値のしたものであろうし、三万円で買い落すということは君を欺(だま)すことと同じことになりますと彼は言い、更に或る美術商の人が言ったことばに陶器もすじの通ったものは、地所と同じ率で年々にその価格が上騰(注14)してゆくそうだが、全くその通りですね、そういう事になれば当然君は市価と同じ価格をうけとらねばならない、とすると僕にはそういう金は持合(もちあわ)せていないし、勢い君は確乎(かっこ)とした美術商に当りをつける必要がある、彼はこういって青年の方に梅瓶をそっとずらせた。青年は彼のいう市価の高い格にぞっとして驚いたらしかったが、唾(つば)をのみ込んでいった。たとえ市価がどうあろうとも一(いっ)たん持参した物であるから、私の申出ではあなたのお心持(こころもち)を添えていただけば、それで沢山なのです、たとえ、その価格がすくないものであっても苦情は申しませんと、真底からそう思っているらしくいったが、彼は当然、価格の判定しているものに対して、人をだますような事は出来ない、東京に信用の於(お)ける(注15)美術商があるからと彼は其処(そこ)に、一通の紹介状を書いて渡した。
客は間もなく立ち去ったが、彼はその後で損をしたような気がし、E その気持が不愉快だった。しかも青年の持参した雲鶴青磁は、彼の床の間にある梅瓶にくらべられる逸品であり、再度と(注16)手にはいる機会の絶無の物であった。人の物がほしくなるのが愛陶のこころ根であるが、当然彼の手にはいったも同様の物を、まんまと彼自身でそれの入手を反らした(注17)ことが、惜しくもあった。
対手(あいて)が承知していたら構わないと思ったものの、やすく手に入れる身そぼらしさ(注18)、多額の金をもうけるような仕打(しうち)を自分の眼に見るいやらしさ、文学を勉強した者のすることでない汚なさ、それらは結局彼にあれはあれで宜かったのだ、自分をいつわることを、一等好きな物を前に置いて、それをそうしなかったことが、誰も知らないことながら心までくさっていないことが、喜ばしかった。F 因縁がなくてわが書斎に佇(たたず)むことの出来なかった四羽の鶴は、その生きた烈しさが日がくれかけても、昼のように皓々(こうこう)(注19)として眼中にあった。
注1 信州 ―― 信濃(しなの)国(現在の長野県)の別称。
注2 陶画 ―― 陶器に描いた絵。
注3 天保 ―― 江戸時代後期の元号。1830 ― 1844年。
注4 染付物 ―― 藍色の顔料で絵模様を描き、その上に無色のうわぐすりをかけて焼いたもの。うわぐすりとは、素焼きの段階の陶磁器の表面に塗る薬品。加熱すると水の浸透を防ぎ、つやを出す。
注5 李朝後期 ―― 美術史上の区分で、一八世紀半ばから一九世紀半ばまでの時期を指す。
注6 尺 ―― 長さの単位。一尺は、約30センチメートル。
注7 女中 ―― 雇われて家事をする女性。当時の呼称。
注8 青磁 ―― 鉄分を含有した青緑色の陶磁器。
注9 釉調 ―― うわぐすりの調子。質感や視覚的効果によって得られる美感のことを指す。
注10 雲鶴青磁 ―― 朝鮮半島高麗(こうらい)時代の青磁の一種で、白土や赤土を用いて、飛雲と舞鶴との様子を表したもの。
注11 肩衝 ―― 器物の口から胴につながる部分の張り。
注12 梅瓶 ―― ロが小さく、上部は丸く張り、下方に向かって緩やかに狭まる形状をした瓶。ここでは、青年が持参した雲鶴青磁のことを指している。
注13 わすられて ―― ここでは「わすれられて」に同じ。
注14 上騰 ―― 高く上がること。高騰。
注15 於ける ―― ここでは「置ける」に同じ。
注16 再度と ―― ここでは「二度と」に同じ。
注17 入手を反らした ―― 手に入れることができなかった、の意。
注18 身そぼらしさ ―― みすぼらしさ。
注19 皓々 ―― 明るいさま。
下線部C「幾らかのからかい気分まで見せていった」について、後の問いに答えよ。
「からかい気分」を感じ取った「彼」の心情の説明として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。
問題
大学入学共通テスト(国語)試験 令和4年度(2022年度)追・再試験 問16(第2問(小説) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)
この信州(注1)の町にも美術商と称する店があって、彼は散歩の折(おり)に店の中を覗(のぞ)いて歩いたが、よしなき壺(つぼ)に眼(め)をとめながら何という意地の汚なさであろうと自分でそう思った。見るべくもない陶画(注2)をよく見ようとする、何処(どこ)までも定見のない自分に惘(あき)れていた、彼はこれらのありふれた壺に、ちょっとでも心が惹かれることは、行きずりの女の人に眼を惹かれる美しさによく似ている故(ゆえ)をもって、郷愁という名称をつけていた。天保(てんぽう)(注3)から明治にかけてのざらにある染付物(そめつけもの)(注4)や、李朝(りちょう)後期(注5)のちょっとした壺の染付などに、彼はいやしく眼をさらして、思い返して何も買わずに店を立ち去るのであるが、A 何ももとめる物も、見るべき物もない折のさびしさはなかなかであった。東京では陶器の店のあるところでは時間をかけて見るべきものもあるが、田舎の町では何も眼にふれてくるものは、なかった。そういう気持(きもち)できょうも家まで帰って来ると、庭の中に一人の青年紳士が立っていた。服装もきちんとし眼のつかい方にも、この若い男の生い立ちの宜(よ)さのほどが見えた。手には相当に大きい尺(しゃく)(注6)もある箱の包(つつみ)をさげていた。かれは初めてお伺いする者だが、ちょっと見ていただきたい物があってお忙しいとは知りながらお訪ねしたといった。彼はこの青年の眼になにかに飢(う)えているものを感じて、その飢えは金銭にあることがその箱の品物と関聯(かんれん)して直(す)ぐに感じられた。彼は何を見せにお見えになったのか知らんが、僕は何も見たい物なんかないといい、これから仕事にかからなければならないから、些(ほ)んのちょっとの間だけお会いするといって、客を茶の間に通した。彼はどういう場合にも居留守をつかったことはないし、会えないといって客を突き帰すことをしなかった。二分間でも三分間でも会って非常な速度で用件を聞いてから、いい事なら即答をしてやっていた。そして率直にいま仕事中だからこれだけ会ったのだからお帰りというのがつねである。一人の訪客に女中(注7)やら娘やらが廊下を行ったり来たりして、会うとか会わんとかいう事でごたごたした気分がいやであった。会えば二三分間で済むことであり遠方から来た人も、会ってさえ貰(もら)えば素直に帰ってゆくのである。だからきょうの客にも彼は一体何を僕に見てくれというのかと訊(き)くと、客は言下に陶器を一つ見ていただきたいのですといった。陶器にも種類がたくさんにあるが何処の物ですかというと、青磁(注8)でございますといった。彼は客の眼に注意してみたが先刻庭の中で見かけた飢えたものがなくなり、穏(おだや)かになっていた。どうやら彼の穏かさは箱の中の青磁に原因した落着(おちつ)きにあるらしい、客はむしろ無造作に箱の中からもう一度包んだ絹のきれをほどきはじめた、そして黄いろい絹の包の下から、突然とろりとした濃い乳緑の青磁どくとくの釉調(ゆうちょう)(注9)が、ひろがった。絹のきれが全く除(よ)けられてしまうと、そこにはだかのB 雲鶴(うんかく)青磁(注10)が肩衝(かたつき)(注11)もなめらかに立っているのを見た。彼は陶器が裸になった羞(はず)かしさを見たことがはじめてであった。彼はこの梅瓶(メイビン)(注12)に四羽の鶴の飛び立っているのに見入った。一羽はすでに雲の上に出てようやくに疲れて、もう昇るところもない満足げなものに見えた。またの一羽は雲の中からひと呼吸(いき)に飛翔するゆるやかさが、二つならべて伸した長い脚のあたりに、ちからを抜いている状態のものであった。そして第三羽の鶴は白い雲の中から烈(はげ)しい啼(な)き声を発して、遅れまいとして熱っぽい翼際の骨のほてりまでが見え、とさかの黒い立ち毛は低く、蛇の頭のような平たい鋭さを現わしていた。最後の一羽にあるこの鳥の念願のごとき飛翔状態は、とさかと同じ列に両翼の間から伸べられた脚までが、平均された一本の走雲(はしりぐも)のような平明さをもって、はるかな雲の間を目指していた。それらの凡(すべ)ての翼は白くふわふわしていて、最後の一羽のごときは長い脚の爪までが燃えているようであった。彼はこの恐ろしい雲鶴青磁を見とどけた時の寒気(さむけ)が、しばらく背中にもむねからも去らないことを知った。客の青年は穏かな眼の中にたっぷりと構えた自信のようなものを見せて、これは本物でしょうかと取りようによっては、C 幾(いく)らかのからかい気分まで見せていった。併(しか)しそれはあまりに驚きが大きかったために、彼がそういう邪推をしてうけとったものかも知れなかった。彼は疑いもなくこれは雲鶴青磁であり逸品であるといい、これはお宅にあったものかと訊くと、終戦後にいろいろ売り払ったなかに、これが一つ最後まで売り残されていた事、売り残されているからには父が就中(なかんずく)、たいせつにしていた物だが、二年前父の死と同時にわすられて(注13)了(しま)っている事を青年はいったが、その時ふたたびこの若い男の眼に飢えたような例のがつがつしたものが、うかべられた。そして青年
は実は私個人の事情でこの青磁を売りたいのですが、時価はどれだけするものか判(わか)らないが私は三万円くらいに売りたいと思っているんです。町の美術商では二万円くらいならというんですが……私は或(あ)る随筆を読んであなたに買って貰えば余処者(よそもの)の手に渡るよりも嬉しいと思って上(あが)ったのだとかれは言った。彼は二万や三万どころではなく最低二十万円はするものだ、或(ある)いは二十五万円はするものかも知れない、それなのにたった三万円で売ろうとしているのに、彼は例の飢えたような眼に何かを突き当てて見ざるをえないし、当然うけとるべき金を知らずにうけとらないということに、正義をも併せて感じた。君はこの雲鶴梅瓶を君だけの意志で売ろうとなさるか、それとも、先刻、お話のお母上の意志も加(くわわ)って居るのかどうかと聞くと、青年は私だけの考えで母はこの話は一(いっ)さい知らないのだといい、若(も)し母が知ってもひどくは咎(とが)めない筈(はず)です、私はいま勤めていて母を見ているし、私のすることで誰も何もいいはしないと彼はいい、若し三万円が無理なら商店の付値(つけね)と私の付値の中間で結構なのです、外の人の手に渡すよりあなたのお手元にあれば、そのことで父が青磁を愛していたおもいも、そこにとどまるような気もして、あんしんしてお預けできる気がするのですと、D その言葉に真率さがあった。文学者なぞ遠くから見ていると、こんな信じ方をされているのかと思った。彼は言った、君は知らないらしいが、実は僕の見るところではこれだけの逸品は、最低二十万円はらくにするものだろう、そしてこの青磁がどんなにやすく見つもっても、十五万円はうけとるべき筈です、決して避暑地なぞで売る物ではなく一流の美術商に手渡しすべき物です、ここまでお話したからには、僕は決して君を騙(だま)すような買い方をする事は出来ない、お父上が買われた時にも相当以上に値のしたものであろうし、三万円で買い落すということは君を欺(だま)すことと同じことになりますと彼は言い、更に或る美術商の人が言ったことばに陶器もすじの通ったものは、地所と同じ率で年々にその価格が上騰(注14)してゆくそうだが、全くその通りですね、そういう事になれば当然君は市価と同じ価格をうけとらねばならない、とすると僕にはそういう金は持合(もちあわ)せていないし、勢い君は確乎(かっこ)とした美術商に当りをつける必要がある、彼はこういって青年の方に梅瓶をそっとずらせた。青年は彼のいう市価の高い格にぞっとして驚いたらしかったが、唾(つば)をのみ込んでいった。たとえ市価がどうあろうとも一(いっ)たん持参した物であるから、私の申出ではあなたのお心持(こころもち)を添えていただけば、それで沢山なのです、たとえ、その価格がすくないものであっても苦情は申しませんと、真底からそう思っているらしくいったが、彼は当然、価格の判定しているものに対して、人をだますような事は出来ない、東京に信用の於(お)ける(注15)美術商があるからと彼は其処(そこ)に、一通の紹介状を書いて渡した。
客は間もなく立ち去ったが、彼はその後で損をしたような気がし、E その気持が不愉快だった。しかも青年の持参した雲鶴青磁は、彼の床の間にある梅瓶にくらべられる逸品であり、再度と(注16)手にはいる機会の絶無の物であった。人の物がほしくなるのが愛陶のこころ根であるが、当然彼の手にはいったも同様の物を、まんまと彼自身でそれの入手を反らした(注17)ことが、惜しくもあった。
対手(あいて)が承知していたら構わないと思ったものの、やすく手に入れる身そぼらしさ(注18)、多額の金をもうけるような仕打(しうち)を自分の眼に見るいやらしさ、文学を勉強した者のすることでない汚なさ、それらは結局彼にあれはあれで宜かったのだ、自分をいつわることを、一等好きな物を前に置いて、それをそうしなかったことが、誰も知らないことながら心までくさっていないことが、喜ばしかった。F 因縁がなくてわが書斎に佇(たたず)むことの出来なかった四羽の鶴は、その生きた烈しさが日がくれかけても、昼のように皓々(こうこう)(注19)として眼中にあった。
注1 信州 ―― 信濃(しなの)国(現在の長野県)の別称。
注2 陶画 ―― 陶器に描いた絵。
注3 天保 ―― 江戸時代後期の元号。1830 ― 1844年。
注4 染付物 ―― 藍色の顔料で絵模様を描き、その上に無色のうわぐすりをかけて焼いたもの。うわぐすりとは、素焼きの段階の陶磁器の表面に塗る薬品。加熱すると水の浸透を防ぎ、つやを出す。
注5 李朝後期 ―― 美術史上の区分で、一八世紀半ばから一九世紀半ばまでの時期を指す。
注6 尺 ―― 長さの単位。一尺は、約30センチメートル。
注7 女中 ―― 雇われて家事をする女性。当時の呼称。
注8 青磁 ―― 鉄分を含有した青緑色の陶磁器。
注9 釉調 ―― うわぐすりの調子。質感や視覚的効果によって得られる美感のことを指す。
注10 雲鶴青磁 ―― 朝鮮半島高麗(こうらい)時代の青磁の一種で、白土や赤土を用いて、飛雲と舞鶴との様子を表したもの。
注11 肩衝 ―― 器物の口から胴につながる部分の張り。
注12 梅瓶 ―― ロが小さく、上部は丸く張り、下方に向かって緩やかに狭まる形状をした瓶。ここでは、青年が持参した雲鶴青磁のことを指している。
注13 わすられて ―― ここでは「わすれられて」に同じ。
注14 上騰 ―― 高く上がること。高騰。
注15 於ける ―― ここでは「置ける」に同じ。
注16 再度と ―― ここでは「二度と」に同じ。
注17 入手を反らした ―― 手に入れることができなかった、の意。
注18 身そぼらしさ ―― みすぼらしさ。
注19 皓々 ―― 明るいさま。
下線部C「幾らかのからかい気分まで見せていった」について、後の問いに答えよ。
「からかい気分」を感じ取った「彼」の心情の説明として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
- 「彼」は青磁の価値にうろたえ、態度と裏腹の発言をした青年が盗品を持参したのではないかといぶかしんだ。
- 「彼」は青磁の素晴らしさに動転し、軽妙さを見せた青年が自分をだまそうとしているのではないかと憶測した。
- 「彼」は青磁の価値に怖じ気づき、穏やかな表情を浮かべる青年が陶器を見極める眼を持っていると誤解した。
- 「彼」は青磁の素晴らしさに圧倒され、軽薄な態度を取る青年が自分を見下しているのではないかと怪しんだ。
- 「彼」は青磁の素晴らしさに仰天し、余裕を感じさせる青年が陶器の真価を知っているのではないかと勘繰った。
正解!素晴らしいです
残念...
この過去問の解説
前の問題(問15)へ
令和4年度(2022年度)追・再試験 問題一覧
次の問題(問17)へ