大学入学共通テスト(公民) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問46 (倫理(第2問) 問8)
問題文
7月末、Cは次の資料を学校に持参し、先生と後の会話を交わした。資料とCが書いている日記の内容を踏まえて、会話中のa・bに入る記述の組合せとして最も適当なものを、後の回答選択肢のうちから一つ選べ。
資料
真の読書においては著者と自分との間に対話が行われるのである。しかも自分が勝手な問を発するのではなく,自分が問を発することは実は著者が自分に問を掛けてくることであり,しかも自分に問題がなければ著者も自分に問を掛けてこない。かくして問から答へ,答は更に問を生み,問答は限りなく進展してゆく。
(三木清『読書と人生』より)
日記
〇6月20日
先生からf明六社の話を聞く。学者が問いと応答を交わす、明治時代の討議討論。江戸時代の会読でも、似たようなことをしていたな。それにしても、問いはどんな風に生まれてくるのだろう?
〇7月11日
今日の授業でg西田幾多郎について学んだ。西田は「人生の悲哀」が宗教や哲学の問いの根源にあると言う。「人生の悲哀」とは、誰もが生きている日常の中で経験する悩みや行き詰まりのことなのだろう。これまで問いは先生など目上の者であれ、仲間という同等の者であれ、他者に問うものだと思っていた。でも、「人生の悲哀」が問いの根底にあると考えるなら、それは他でもない自分自身の私的で内的な実感なのだから、他者に問う場合でも、その前提として、自分自身に向けて問うということがあるのではないか。実際に西田の講義は自問自答のスタイルだったらしい。西田の哲学する姿勢が教えてくれるように、自分自身への問いも、正真正銘の問いだし、そうした問いも、誰でも体験する感覚に由来するものなんだな。私が日記でしている自問自答も、西田の問いに通じるところがあるのかな?
〇7月17日
改めて考え直してみると、問いをもって『孟子』を読んだ吉田松陰の牢獄での営みも、西田幾多郎の自分自身への問いも、私の自問自答も、問いであるという点では同じなんだよな。私は探究活動で使えるような問いを見付けるのは苦手だと思っていたけれど、自問自答なら得意なんだし、積極的に取り組んでみようかな。
C:私は次第に、問いはいつでも誰に対しても生じるのだと考えるようになったのですが、さらに日記を書いていて、( a )ことに気付きました。三木清は、読書でも問いが不可欠だと言っていますね。
先生:そうです。読書中の問いについて、三木は何と言っていますか?
C:はい、( b )ということですね。読書は他者への問いと自己への問いを兼ね備えた営みですが、読書などを通じて足元で生じた素朴な問いを、丁寧に拾い集めることが、自分の問いの始まりなんですね!
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問題
大学入学共通テスト(公民)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問46(倫理(第2問) 問8) (訂正依頼・報告はこちら)
7月末、Cは次の資料を学校に持参し、先生と後の会話を交わした。資料とCが書いている日記の内容を踏まえて、会話中のa・bに入る記述の組合せとして最も適当なものを、後の回答選択肢のうちから一つ選べ。
資料
真の読書においては著者と自分との間に対話が行われるのである。しかも自分が勝手な問を発するのではなく,自分が問を発することは実は著者が自分に問を掛けてくることであり,しかも自分に問題がなければ著者も自分に問を掛けてこない。かくして問から答へ,答は更に問を生み,問答は限りなく進展してゆく。
(三木清『読書と人生』より)
日記
〇6月20日
先生からf明六社の話を聞く。学者が問いと応答を交わす、明治時代の討議討論。江戸時代の会読でも、似たようなことをしていたな。それにしても、問いはどんな風に生まれてくるのだろう?
〇7月11日
今日の授業でg西田幾多郎について学んだ。西田は「人生の悲哀」が宗教や哲学の問いの根源にあると言う。「人生の悲哀」とは、誰もが生きている日常の中で経験する悩みや行き詰まりのことなのだろう。これまで問いは先生など目上の者であれ、仲間という同等の者であれ、他者に問うものだと思っていた。でも、「人生の悲哀」が問いの根底にあると考えるなら、それは他でもない自分自身の私的で内的な実感なのだから、他者に問う場合でも、その前提として、自分自身に向けて問うということがあるのではないか。実際に西田の講義は自問自答のスタイルだったらしい。西田の哲学する姿勢が教えてくれるように、自分自身への問いも、正真正銘の問いだし、そうした問いも、誰でも体験する感覚に由来するものなんだな。私が日記でしている自問自答も、西田の問いに通じるところがあるのかな?
〇7月17日
改めて考え直してみると、問いをもって『孟子』を読んだ吉田松陰の牢獄での営みも、西田幾多郎の自分自身への問いも、私の自問自答も、問いであるという点では同じなんだよな。私は探究活動で使えるような問いを見付けるのは苦手だと思っていたけれど、自問自答なら得意なんだし、積極的に取り組んでみようかな。
C:私は次第に、問いはいつでも誰に対しても生じるのだと考えるようになったのですが、さらに日記を書いていて、( a )ことに気付きました。三木清は、読書でも問いが不可欠だと言っていますね。
先生:そうです。読書中の問いについて、三木は何と言っていますか?
C:はい、( b )ということですね。読書は他者への問いと自己への問いを兼ね備えた営みですが、読書などを通じて足元で生じた素朴な問いを、丁寧に拾い集めることが、自分の問いの始まりなんですね!
- a 他者に向けられた問いも自問自答も問いであることは同じである
b 問いは次々に更なる新たな問いを生み出していく - a 問いは他者に向けられることではじめて真の問いとなる
b 問いを出すことで、問いと答えの応酬が生じてくる - a 西田幾多郎の問いと似たことを自分もしている
b 読者は謙虚に、著者が次々と投げ掛ける問いにもっぱら従うべき - a 思想家たちの問いと自分の自問自答は区別しなければならない
b 読者が思い付いた問いを、著者に気の向くまま投げ掛けてよい
正解!素晴らしいです
残念...
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