一級建築士の過去問 令和4年(2022年) 学科1(計画) 問2
この過去問の解説 (2件)
この問題は、古代から近現代までの「日本都市計画」に関する問題です。
過去に出題されている設問に関しては、内容までしっかり理解するようにして下さい。
→正しいです。
条坊制とは、日本古代に見られる都市計画で、南北中央に配置した朱雀大路を中心に左京と右京に分け、条(東西道路)と坊(南北道路)を碁盤の目状に組み合わせた都市計画です。条坊制は平城京や平安京で用いられました。
→正しいです。
江戸では、江戸城を中心とする堀の開削や入江の埋め立て、大名屋敷の配置や町人地の設定をするなど、起伏に富んだ地形に対応した開発が行われました。
→誤りです。
後藤新平らによる関東大震災からの「帝都復興計画」では、耐震化・不燃化のため、鉄筋コンクリート造の小学校を建設すると共に、街全体のインフラや幹線道路を整備しました。
設問は、エンデベックマンによる「官庁集中計画」の説明文です。
→正しいです。
丹下健三による「東京計画1960」では、求心・放射型の都市構造の閉鎖性を否定し、これからの東京には、「都市軸」という開放的な線型成長が必要であると提言されました。
この問題は、「日本都市計画」に関する問題です。
→正しいです。
平安京は794年、現在の京都市中心部に遷都された都です。
条坊制とは、条(東西道路)と坊(南北道路)による、碁盤の目のような格子状の区割りで、当時の中国の都・長安をまねて造られたものであり、現在の京都市に引き継がれた街並みです。
→正しいです。
江戸では、16世紀末から17世紀にかけて江戸城を中核とする堀の開削や、海岸線の埋め立てが行われ、山の手の尾根筋の土地に大名屋敷を配しました。
江戸の町割は京の町をモデルにして整備され、日本橋・京橋などは江戸城のお膝元である町人地の中心として、この町割が採用されました。
それに対し、周辺部や、谷筋に位置する川沿いの町は、不整形の町人地となっており、地域によりさまざまな町割が混在していました。
→誤りです。
設問は、明治政府の要請に基づき、ドイツのエンデ・ベックマン建築事務所が提案した「官庁集中計画」です。
議事堂や官庁などを霞が関付近に集中し、パリなどを参考にバロック建築都市の建設を目的としたものです。
ドイツのエンデ・ベックマン建築事務所による「帝都復興計画」は、1923年の関東大震災からの復興を契機に、内務大臣の後藤新平が総裁に就任した帝都復興院によって立案された、東京の改造計画です。
大規模な道路整備や土地区画の整理などが盛り込まれた計画で、莫大な額の国家予算が必要とされていましたが、財政難などにより、事業規模は大幅に縮小されました。
住宅供給のための同潤会の設立はこの計画によるもので、被災地の区画整理や街路復興、耐火・耐震化された復興小学校の建設などの事業が実施されました。
→正しいです。
「東京計画 1960」は、人口が増大している東京の将来に対して、提言された都市構想です。
これまでの求心・放射型の都市では、閉鎖的で人口増大に対応できなくなるとして、都市軸の概念を示し、開放的な、線形発展を可能にする都市構造を提言しました。
それは東京湾上へ都市を発展しようとさせた、海上都市計画とも言えます。
範囲が広く新出が多い問題ですが、過去問からの出題もあるので、過去問は確実におさえましょう。
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