大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和4年度(2022年度)本試験
問8 (世界史B(第1問) 問8)
問題文
次の資料は、近代中国の学者である王国維が著した論文の一部である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)
資料
およそ歴史を研究する際、ある民族の歴史を知るためには、別の民族によって書かれた記録に頼らないわけにはいかない。例えば、塞外(さいがい)(注)の民族である匈奴や鮮卑、西域の諸国については、中国の正史に記載があるほかには、信頼できる歴史記録はほとんどない。
その後、契丹と( エ )の文化が発展したが、彼ら独自の文字は既に使われなくなり、それぞれの民族について、漢語で編纂された『遼史』と『金史』があるほかには、やはり信頼できる歴史記録はほとんどない。
モンゴルについて言えば、今日でも広大な土地と独自の文字を有しているが、人々はd 宗教に夢中となり、学問を重視しなかったため、古い時代の史書の原本は元のままでは残っておらず、むしろ漢語やペルシア語の文献によって伝わっている。
(注)塞外一長城の外側。
モンゴルが学問を重視しなかったという説明は乱暴に過ぎるが、史料が様々な理由で失われうることは事実である。一方、残された史料の方も鵜呑(うの)みにしてよいとは限らない。王国維は上の文章に続けて、モンゴルについて記すある漢語史料の信頼性に問題があることを論じている。
下線部dのような王国維の理解は、モンゴル人がチベット仏教を篤(あつ)く信仰したことを踏まえたものと考えられる。チベット仏教の歴史について述べた文として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和4年度(2022年度)本試験 問8(世界史B(第1問) 問8) (訂正依頼・報告はこちら)
次の資料は、近代中国の学者である王国維が著した論文の一部である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)
資料
およそ歴史を研究する際、ある民族の歴史を知るためには、別の民族によって書かれた記録に頼らないわけにはいかない。例えば、塞外(さいがい)(注)の民族である匈奴や鮮卑、西域の諸国については、中国の正史に記載があるほかには、信頼できる歴史記録はほとんどない。
その後、契丹と( エ )の文化が発展したが、彼ら独自の文字は既に使われなくなり、それぞれの民族について、漢語で編纂された『遼史』と『金史』があるほかには、やはり信頼できる歴史記録はほとんどない。
モンゴルについて言えば、今日でも広大な土地と独自の文字を有しているが、人々はd 宗教に夢中となり、学問を重視しなかったため、古い時代の史書の原本は元のままでは残っておらず、むしろ漢語やペルシア語の文献によって伝わっている。
(注)塞外一長城の外側。
モンゴルが学問を重視しなかったという説明は乱暴に過ぎるが、史料が様々な理由で失われうることは事実である。一方、残された史料の方も鵜呑(うの)みにしてよいとは限らない。王国維は上の文章に続けて、モンゴルについて記すある漢語史料の信頼性に問題があることを論じている。
下線部dのような王国維の理解は、モンゴル人がチベット仏教を篤(あつ)く信仰したことを踏まえたものと考えられる。チベット仏教の歴史について述べた文として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。
- ワッハーブ派が、改革運動を起こした。
- ガザン=ハンが、黄帽派(ゲルク派)に改宗した。
- ダライ=ラマ14世が、インドに亡命した。
- 北魏による手厚い保護を受けた。
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この過去問の解説 (1件)
01
この問題では、モンゴル人がチベット仏教を信仰したことに関する理解をもとに、チベット仏教の歴史的事実として正しい記述を選ぶことが求められています。
それぞれの選択肢がチベット仏教とどう関係しているかを確認していきます。
ワッハーブ派は、18世紀にアラビア半島で生まれたイスラーム教スンナ派の一派です。
創始者はムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブで、彼は当時のイスラーム世界に広まっていた聖者崇拝や墓参り、装飾のある宗教儀式を批判し、初期イスラームに戻ることを主張しました。
サウード家と結びつき、やがてサウジアラビア建国の思想的基盤となります。
この運動はイスラーム教内部の純化運動であり、仏教とは無関係です。
ガザン=ハンは、13世紀末のイル=ハン国(モンゴル帝国の一部)の君主です。
彼は当初仏教徒でしたが、即位後の1295年にイスラームに改宗し、以降イル=ハン国ではイスラームが国教になります。
一方で、黄帽派(ゲルク派)は、15世紀にツォンカパによってチベット仏教の改革派として創始された宗派です。
ダライ=ラマの系譜はこの黄帽派に属します。
ガザン=ハンと黄帽派は時代的にも思想的にもつながりがなく、改宗した宗教も異なります。
ダライ=ラマ14世(テンジン=ギャツォ)は、1935年生まれのチベット仏教最高指導者です。
1950年代、中国(中華人民共和国)がチベットを併合し、宗教や文化への抑圧が強まりました。
1959年、ラサで起きた反中国暴動(チベット蜂起)の後、ダライ=ラマ14世はインドへ亡命し、北部のダラムサラにチベット亡命政府を設立しました。
この亡命以後も、彼は世界各地でチベット文化と仏教の保護・平和的解決を訴える活動を行っています。
この出来事は現代チベット仏教の歴史上、非常に重要な出来事です。
北魏(386〜534年)は、鮮卑系の王朝で、五胡十六国時代を経て華北を統一した国です。
この王朝は、仏教を手厚く保護し、仏像建立や寺院造営に力を入れました。
代表例が雲崗石窟や龍門石窟です。
ただし、北魏が支援したのは中国に伝来した漢伝仏教であり、チベット仏教(ラマ教)とは無関係です。
チベット仏教に関する出来事として最も適当なのは、「ダライ=ラマ14世が、インドに亡命した。」です。
他の選択肢は、時代の不一致や宗教の混同が見られます。
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