大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和4年度(2022年度)本試験
問45 (日本史B(第2問) 問5)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和4年度(2022年度)本試験 問45(日本史B(第2問) 問5) (訂正依頼・報告はこちら)

高校生のリツさんは、日本古代の法は、中国の法にならって編纂(へんさん)されたことを教わった。そこで、先生の助言を受けて、日本古代の法整備の歴史と、中国の法典をもたらした遣隋使・遣唐使の派遣について、年表にまとめて整理してみた。この年表を読んで、後の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

リツさんは、年表とこれまでの学習を踏まえ、日本古代の法整備についてまとめてみた。日本古代の法整備について述べた文として誤っているものを、次のうちから一つ選べ。
問題文の画像
  • 令は、隋や唐とは異なり、律よりも先行して整備された。
  • 律令の編纂は、天皇の代替わりごとに行われた。
  • 法典としての格式の編纂は、大宝律令の編纂から100年以上遅れた。
  • 格式の編纂は、遣唐使が派遣されなくなった後にも行われた。

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この過去問の解説 (2件)

01

日本古代の法律は、中国の律令制度を手本にしながら整備されました。

問題の選択肢を一つずつ見ていきましょう。

選択肢1. 令は、隋や唐とは異なり、律よりも先行して整備された。

日本では「律」より「令」のほうが先に作られました。

一方、中国の隋や唐では「律」と「令」がほぼ同時に作られています。

この記述は適切です。

 

選択肢2. 律令の編纂は、天皇の代替わりごとに行われた。

律令(法律)の編纂は天皇が変わるたびに必ず行われたわけではありません。

大宝律令と養老律令の編纂にはかなりの期間が空いています。

この記述は誤っています。

選択肢3. 法典としての格式の編纂は、大宝律令の編纂から100年以上遅れた。

格式(律令を補足するルール)は、大宝律令(701年)の後、9世紀初め(弘仁格式・820年頃)になって作られました。

100年以上の時間が経っています。

この記述は適切です。

選択肢4. 格式の編纂は、遣唐使が派遣されなくなった後にも行われた。

遣唐使が中止されたのは894年です。

その後も延喜格式(927年)が作られているので、この記述は適切です。

まとめ

日本古代の法整備は中国の影響を強く受けつつも、独自の流れを持って進められていきました。

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02

この問題は律令について正しく理解しているかを問われる問題です。まず、律は刑法、令は行政法だということを頭に入れておきましょう。

選択肢1. 令は、隋や唐とは異なり、律よりも先行して整備された。

正しいです。隋や唐では律と令はセットで整備されますが、日本では令が先に制定されました。668年、天智天皇の時代につくられた近江令が日本初の法です。

選択肢2. 律令の編纂は、天皇の代替わりごとに行われた。

誤りです。律令の編纂は天皇の代替わりごとではなく、その時の社会状況を踏まえ編纂をしていました。718年に編纂された養老律令は、以後400年に渡り使われることになります。

選択肢3. 法典としての格式の編纂は、大宝律令の編纂から100年以上遅れた。

正しいです。まず、格式とは現状に合わせて律令を調整するための役割があります。701年の大宝律令から、初の格式である820年の弘仁格式までは100年以上の差があります。

選択肢4. 格式の編纂は、遣唐使が派遣されなくなった後にも行われた。

正しいです。遣唐使の派遣停止は894年、醍醐天皇による延喜格式は927年です。律令制度の形骸化により、延喜格式を最後に格式も編纂されなくなりました。

まとめ

古代の律令制は中国から入ってきたものではありますが、日本独自の動きがあります。日本の律令制度は中国とは違い、まず政治体制を整えるために行政法である令から制定されました。また、遣唐使の派遣が停止された後も日本独自のルールとして律令を支えるための格式が編纂されました。ここを抑えると解きやすい問題です。

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