大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問12 (世界史B(第2問) 問6)
問題文
次の資料1・2は、ファーティマ朝のカリフについて、後の王朝の二人の歴史家がその正統性を論じた文章の概略である。
資料1
私はファーティマ朝のカリフをこの『カリフたちの歴史』では採り上げなかった。彼らがクライシュ族ではないため、b カリフの資格がないからである。
ある法官によると、彼らの王朝の開祖が北アフリカで王朝を建てた時、アリーの子孫であると自称したが、系譜学者たちは誰一人彼を知らなかったという。また伝えられるところによると、ファーティマ朝の支配者の一人が、( ウ )の支配者に対して侮辱する手紙を送った時、( ウ )の支配者は、「あなたは私たちウマイヤ家の系譜を知っていて、私たちのことを侮辱した。しかし、私たちはあなたたちのことなど知らない」と返答したという。
このようなことから、私は彼らをカリフと認めず、記さなかったのである。
資料2
多くの歴史家に受け取られている愚かな情報の中には、ファーティマ朝カリフがアリーの子孫であることを否定するものがあるが、それは競争相手を非難してアッバース朝カリフに取り入る目的で作られたものである。アッバース朝カリフに仕える人々にとっては、ファーティマ朝にシリアやエジプトを奪われたまま奪還できない無能力を取り繕うのに好都合だったからである。
しかし、アッバース朝カリフがファーティマ朝成立当初に地方総督へ送った手紙の中には、ファーティマ朝カリフの系譜について言及があり、その手紙が、彼らがアリーの子孫であるということをはっきりと証明している。
カリフは、中世のムスリムによって、イスラーム共同体の指導者としてただ一人がその地位に就くとみなされていた。しかし10世紀にファーティマ朝や( ウ )の支配者もカリフを称し、複数のカリフが長期間並立したことで、ムスリムが従うべき正しい指導者は誰かという問題は、さらに複雑なものとなった。
資料1・2の著者を含め、スンナ派の学者たちは、カリフになるための資格に関して、ムスリムであることに加えて、7世紀初頭にメッカに住んでいたクライシュ族の子孫であることも必要な条件であると考えていた。ここで言及されているウマイヤ家もアリー家も、そしてアッバース家も、クライシュ族である。
資料1・2を参考にしつつ、ファーティマ朝の歴史とそのカリフについて述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問12(世界史B(第2問) 問6) (訂正依頼・報告はこちら)
次の資料1・2は、ファーティマ朝のカリフについて、後の王朝の二人の歴史家がその正統性を論じた文章の概略である。
資料1
私はファーティマ朝のカリフをこの『カリフたちの歴史』では採り上げなかった。彼らがクライシュ族ではないため、b カリフの資格がないからである。
ある法官によると、彼らの王朝の開祖が北アフリカで王朝を建てた時、アリーの子孫であると自称したが、系譜学者たちは誰一人彼を知らなかったという。また伝えられるところによると、ファーティマ朝の支配者の一人が、( ウ )の支配者に対して侮辱する手紙を送った時、( ウ )の支配者は、「あなたは私たちウマイヤ家の系譜を知っていて、私たちのことを侮辱した。しかし、私たちはあなたたちのことなど知らない」と返答したという。
このようなことから、私は彼らをカリフと認めず、記さなかったのである。
資料2
多くの歴史家に受け取られている愚かな情報の中には、ファーティマ朝カリフがアリーの子孫であることを否定するものがあるが、それは競争相手を非難してアッバース朝カリフに取り入る目的で作られたものである。アッバース朝カリフに仕える人々にとっては、ファーティマ朝にシリアやエジプトを奪われたまま奪還できない無能力を取り繕うのに好都合だったからである。
しかし、アッバース朝カリフがファーティマ朝成立当初に地方総督へ送った手紙の中には、ファーティマ朝カリフの系譜について言及があり、その手紙が、彼らがアリーの子孫であるということをはっきりと証明している。
カリフは、中世のムスリムによって、イスラーム共同体の指導者としてただ一人がその地位に就くとみなされていた。しかし10世紀にファーティマ朝や( ウ )の支配者もカリフを称し、複数のカリフが長期間並立したことで、ムスリムが従うべき正しい指導者は誰かという問題は、さらに複雑なものとなった。
資料1・2の著者を含め、スンナ派の学者たちは、カリフになるための資格に関して、ムスリムであることに加えて、7世紀初頭にメッカに住んでいたクライシュ族の子孫であることも必要な条件であると考えていた。ここで言及されているウマイヤ家もアリー家も、そしてアッバース家も、クライシュ族である。
資料1・2を参考にしつつ、ファーティマ朝の歴史とそのカリフについて述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
- ファーティマ朝はアッバース朝成立以前に成立した王朝であり、資料1は伝聞や逸話に基づいてそのカリフの正統性を否定している。
- ファーティマ朝はスンナ派の一派が建てた王朝であり、資料1と資料2はともに系譜を根拠としてその支配者がカリフであると認めている。
- ファーティマ朝はカイロを首都としたが、資料2はシリアやエジプトを取り戻せないという無能力によってカリフの資格がないと判断している。
- ファーティマ朝はアッバース朝の権威を否定していたが、資料2はアッバース朝カリフの手紙を証拠としてファーティマ朝のカリフをアリーの子孫だと認めている。
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この過去問の解説 (1件)
01
最も適当な選択肢は、
「ファーティマ朝はアッバース朝の権威を否定していたが、資料2はアッバース朝カリフの手紙を証拠としてファーティマ朝のカリフをアリーの子孫だと認めている。」 です。
ファーティマ朝の成立は909年で、750年成立のアッバース朝より後です。
年代が誤っています。
ファーティマ朝はシーア派(イスマーイール派)の王朝です。
また資料1は正統性を否定しているので不適切です。
カイロ遷都(969年)は正しいものの、資料2はむしろファーティマ朝の正統性を擁護しています。
ファーティマ朝は対立カリフとしてアッバース朝に挑戦しました。
資料2はアッバース朝カリフが送った手紙を引用し、ファーティマ朝支配者がアリー家の血筋であると裏付けています。
10世紀以降、バグダードのアッバース朝・カイロに進出したファーティマ朝・イベリアの後ウマイヤ朝の三カリフ並立によって、イスラーム世界では指導者の正統性が激しく論争されました。
スンナ派史家の多くはクライシュ族出自を重視してファーティマ朝を否定しましたが、資料2のようにアッバース側の文書をもとにファーティマ朝の系譜を擁護する声も存在しました。
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