大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問15 (世界史B(第3問) 問3)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問15(世界史B(第3問) 問3) (訂正依頼・報告はこちら)

世界史を学ぶ際には、単に歴史知識を獲得するだけではなく、それに対する疑問や議論を通じて歴史への理解を深めることが重要である。そのような授業や対話の様子について描写した次の文章を読み、後の問いに答えよ。

あるクラスで、科挙に関する授業が行われている。

高木:中国の科挙について勉強しましたが、子どもの頃から儒学の経典を学んで、何回も受験する人が多いことに驚きました。学校はあったのでしょうか。
先生:中国では、官立学校で儒学を教え、学生は官吏の候補として養成されました。科挙が定着した後、官立学校は全体に振るいませんでしたが、宋代には私立学校の書院が各地にでき、新しい学問である( ウ )も書院の活動のなかで生まれました。17世紀の顧炎武は、官立学校の学生身分を持つ者が増え過ぎて社会問題になっていると論じています。
高木:学生が増えたのが社会問題になったのはなぜでしょうか。
先生:王朝の交替を目の当たりにした顧炎武は、多くの学生が政治上の争いに加担したことを問題として挙げていますが、それには、彼が同時代のこととして見聞した、書院を拠点とした争いが念頭にありました。
高木:それは、( エ )ことではないでしょうか。
先生:そうです。彼はまた、学校教育の停滞も指摘していて、科挙合格のために、当時の官学であった( ウ )を表面的に学ぶことを問題視しました。そこで、学生のあり方や、科挙自体も大幅に改革すべきだと論じています。
吉田:日本では科挙について議論はなかったのでしょうか。
先生:江戸時代の儒学者の中には、科挙は文才を重視し過ぎて実際の役に立っていないとして、むしろa 中国で科挙の開始より古い時代に行われた人材登用制度を参考にすべきだという意見がありました。日本の社会には中国で理想とされる周代と共通する要素があると考え、周代の制度を参考にして、文才ではなく人柄を重視しようとしたのです。
吉田:それはもっともな意見ですが、科挙を採用した国もありましたね。そうした国の人はどう考えていたのでしょうか。
先生:例えば江戸時代の日本を訪れた朝鮮の知識人の一人が、日本には科挙がないので官職が全て世襲で決まり、埋もれた人材がいると書き残しています。日本の儒学者とは反対の意見です。
吉田:それも納得できます。人材の登用はいろいろな問題があるのですね。

文章中の空欄ウの学問について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • 科挙が創設された時代に、書院を中心に新しい学問として興った。
  • 金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いた。
  • 臨安が都とされた時代に大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した。
  • 実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた。

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この過去問の解説 (1件)

01

最も適当な選択肢は、

「臨安が都とされた時代に大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した。」 です。

 

書院活動から生まれ、やがて科挙の官学として採用されたため、多くの受験者がこの学問を学ぶようになりました。

選択肢1. 科挙が創設された時代に、書院を中心に新しい学問として興った。

科挙は隋・唐で整備されましたが、この時期の学問は経義科で求められた旧来の経書解釈です。

宋代の新学問とは時期がずれます。

選択肢2. 金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いた。

これは金代の姚簡などが進めた三教合一思想を示す内容ですが、宋の書院や科挙の官学とは異なります。

選択肢3. 臨安が都とされた時代に大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した。

南宋の都・臨安で朱熹らが大成し、論語・孟子・大学・中庸の四書を学習の核としました。

書院での講学を通じて広まり、元の時代以降は官学とされ、科挙の答案作成でも必須となりました。

文章中の「宋代の書院で生まれた新しい学問」「官学になった」という条件と完全に一致します。

選択肢4. 実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた。

王守仁(王陽明)は明代中期の人物で、朱子学に対する批判から陽明学(心学)を形成しました。

宋代成立という条件に合いません。

まとめ

宋代の私立書院から生まれた朱子学は、四書を基礎に理気論を説き、元・明・清と科挙で重視され続けました。

朱子学が官学化すると、表面的な暗記と答案作りが横行し、顧炎武が嘆いた「学生の増大と学問の停滞」という問題につながりました。

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