大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問16 (世界史B(第3問) 問4)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問16(世界史B(第3問) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)

世界史を学ぶ際には、単に歴史知識を獲得するだけではなく、それに対する疑問や議論を通じて歴史への理解を深めることが重要である。そのような授業や対話の様子について描写した次の文章を読み、後の問いに答えよ。

あるクラスで、科挙に関する授業が行われている。

高木:中国の科挙について勉強しましたが、子どもの頃から儒学の経典を学んで、何回も受験する人が多いことに驚きました。学校はあったのでしょうか。
先生:中国では、官立学校で儒学を教え、学生は官吏の候補として養成されました。科挙が定着した後、官立学校は全体に振るいませんでしたが、宋代には私立学校の書院が各地にでき、新しい学問である( ウ )も書院の活動のなかで生まれました。17世紀の顧炎武は、官立学校の学生身分を持つ者が増え過ぎて社会問題になっていると論じています。
高木:学生が増えたのが社会問題になったのはなぜでしょうか。
先生:王朝の交替を目の当たりにした顧炎武は、多くの学生が政治上の争いに加担したことを問題として挙げていますが、それには、彼が同時代のこととして見聞した、書院を拠点とした争いが念頭にありました。
高木:それは、( エ )ことではないでしょうか。
先生:そうです。彼はまた、学校教育の停滞も指摘していて、科挙合格のために、当時の官学であった( ウ )を表面的に学ぶことを問題視しました。そこで、学生のあり方や、科挙自体も大幅に改革すべきだと論じています。
吉田:日本では科挙について議論はなかったのでしょうか。
先生:江戸時代の儒学者の中には、科挙は文才を重視し過ぎて実際の役に立っていないとして、むしろa 中国で科挙の開始より古い時代に行われた人材登用制度を参考にすべきだという意見がありました。日本の社会には中国で理想とされる周代と共通する要素があると考え、周代の制度を参考にして、文才ではなく人柄を重視しようとしたのです。
吉田:それはもっともな意見ですが、科挙を採用した国もありましたね。そうした国の人はどう考えていたのでしょうか。
先生:例えば江戸時代の日本を訪れた朝鮮の知識人の一人が、日本には科挙がないので官職が全て世襲で決まり、埋もれた人材がいると書き残しています。日本の儒学者とは反対の意見です。
吉田:それも納得できます。人材の登用はいろいろな問題があるのですね。

文章中の空欄エに入れる文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
  • 宗教結社の太平道が、黄巾の乱を起こした
  • 和平派の秦檜らと主戦派の岳飛らとが対立した
  • 土木の変で、皇帝が捕らえられた
  • 東林派の人々が、政府を批判した

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この過去問の解説 (2件)

01

最も適当な選択肢は、
「東林派の人々が、政府を批判した」
です。

 

顧炎武の活躍した17世紀に起こった、書院を拠点とした争いとは、東林派と非東林派の政治的対立のことです。

明代において、政府・皇帝側の宦官の腐敗を批判する顧憲成ら官僚からなる東林書院の東林派と、魏忠賢ら宦官からなる非東林派は、一進一退の勢力争いを繰り広げ、明から清への王朝交代の一つの要因となりました。

選択肢1. 宗教結社の太平道が、黄巾の乱を起こした

誤りです。

黄巾の乱は後漢末期の農民反乱であり、明代・清代の出来事ではありません。

 

選択肢2. 和平派の秦檜らと主戦派の岳飛らとが対立した

誤りです。

和平派の秦檜らと主戦派の岳飛らとの対立は、金への対応を巡って南宋の官僚の間で生じたもので、明代・清代の出来事ではありません。

 

選択肢3. 土木の変で、皇帝が捕らえられた

誤りです。

土木の変は15世紀半ばにオイラトのエセン・ハン明の正統帝を捕えたもので、17世紀の書院とは関係ありません。

 

選択肢4. 東林派の人々が、政府を批判した

正解です。
17世紀に活躍した東林派の人々は書院の官僚であり、政府・皇帝側の宦官からなる非東林派の腐敗を批判しました。

 

まとめ

顧炎武は、官立学校の学生が増え過ぎ、彼らが、宦官の腐敗を非難する東林派と、宦官ら非東林派との、書院における政治的対立に加担して、最後には王朝交代を招いたこと、そして官学であった朱子学が形骸化しつつあることを批判しました。

 

明は外敵の侵攻のみならず、内部の腐敗や政治的混乱によっても弱体化しましたが、そんな中で王朝交代をその目で見た顧炎武は、科挙や学生の在り方の改革を求めたり、新たな学問としての考証学を大成させたりしたのです。

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02

最も適当な選択肢は、

「東林派の人々が、政府を批判した」 です。

選択肢1. 宗教結社の太平道が、黄巾の乱を起こした

後漢末(184年)の出来事であり、書院も科挙もまだ存在しない時代です。

選択肢2. 和平派の秦檜らと主戦派の岳飛らとが対立した

南宋(12世紀)の政治対立で、書院を中心とした学生運動ではありません。

顧炎武の論じた17世紀とは大きく離れます。

選択肢3. 土木の変で、皇帝が捕らえられた

明代中期(15世紀)の軍事事件であり、学術拠点の書院とは直接関係がなく、学生の党派抗争でもありません。

選択肢4. 東林派の人々が、政府を批判した

明末の名士が集まった東林書院では、儒学を基盤に政治論議が盛んでした。

彼らは宦官の魏忠賢を中心とする専横を厳しく糾弾し、官僚や学生を巻き込んだ激しい論争に発展します。

書院が対立の舞台になった点が本文の説明と合致します。

顧炎武はこの東林党争を目の当たりにし、学生が政治闘争に深入りする弊害と科挙・教育制度の形骸化を問題視しました。

まとめ

顧炎武が批判したのは、東林書院を拠点にした官僚・儒学者・学生の派閥争い(東林党争)でした。

学問の場が政治闘争に転じた結果、科挙合格を目的とする形式的な学習や、名誉だけを求める学生身分が横行し、社会不安と王朝の衰退を招いたと考えられたのです。

東林派の問題点を指摘した顧炎武の議論は、科挙や学校教育のあり方を再考する重要な契機となりました。

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