大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問29 (世界史B(第5問) 問1)

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問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問29(世界史B(第5問) 問1) (訂正依頼・報告はこちら)

歴史統計は、各地の社会経済の構造やその変化を反映している。歴史統計について述べた次の文章を読み、後の問いに答えよ。

あるクラスで、世界史の授業が行われている。

先生:次の表は、1929年の東南アジアにおける4つの植民地の主要な輸出先とその比率を示しています。表中のインドネシアは、現在のインドネシアに当たる植民地を指します。マラヤ(マレー)には、海峡植民地が含まれています。ここからどのようなことが分かりますか。
石田:植民地は、宗主国としか貿易できないと思っていましたが、そうでもないですね。4地域の中で宗主国がトップなのは一つだけです。
先生:そのとおりです。宗主国との貿易の比率が高い地域とそうでない地域があり、輸出品や宗主国によって事情が異なります。a マラヤの宗主国が進めた自由貿易政策は東南アジア全体に影響を与えました。
佐藤:マラヤは、( ア )への輸出の比率が高いですね。なぜですか。
先生:マラヤの主要な輸出品はゴムでした。b 統計が取られた時点で、( ア )において、ゴムの需要が高まっていたのです
工藤:インドシナも特徴的ですね。香港、中国といった東アジアの諸地域や、同じ東南アジアの植民地が上位に名を連ねています。
先生:インドシナの主要な輸出品は米でした。アジア地域の開発による人口増加に伴い、食糧として米の需要が大きかったと考えられます。
石田:この時期の東南アジアは植民地として政治的に分割されましたが、経済的には近隣の諸地域との関係が強かったのですね。他の地域でも同じことが言えるのでしょうか。
先生:それはまた調べてみましょう。東南アジアにおいても、ちょうどこの年にニューヨークで起こった株価暴落を契機として、この構造は変化していくことになります。

下線部aの歴史について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
問題文の画像
  • シンガポールを獲得して、東南アジアにおける交易の拠点とした。
  • 19世紀後半に、自国の東インド会社の貿易独占権を廃止した。
  • 清との間に、公行の廃止を定めた北京議定書を結んだ。
  • オタワ会議(オタワ連邦会議)により、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を廃止した。

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この過去問の解説 (2件)

01

最も適当な選択肢は、

シンガポールを獲得して、東南アジアにおける交易の拠点とした。」

です。

 

イギリスは、1819年以降、行政官のラッフルズの主導により、シンガポールを植民地化して自由港とし、同地を東南アジアにおける交易の要衝へと発展させました。

1826年には、シンガポールはイギリス領海峡植民地に編入され、この海峡植民地は、他のマレー半島諸国と共にイギリス領マラヤを形成しました。

選択肢1. シンガポールを獲得して、東南アジアにおける交易の拠点とした。

正解です。

マラヤの宗主国であったイギリスは、1826年に、シンガポールをイギリス領海峡植民地へ編入し、同地は自由港として、東南アジアにおける交易の中心地へと発展しました。

選択肢2. 19世紀後半に、自国の東インド会社の貿易独占権を廃止した。

誤りです。

イギリスが自国の東インド会社の貿易独占権を廃止したのは1813年であり、19世紀後半ではありません。

選択肢3. 清との間に、公行の廃止を定めた北京議定書を結んだ。

誤りです。

イギリスが清に公行の廃止を求めたのは、アヘン戦争の講和条約として結ばれた、1842年の南京条約においてです。

義和団事件の講和に際して、1901年に11カ国と締結された北京議定書ではありません。

選択肢4. オタワ会議(オタワ連邦会議)により、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を廃止した。

誤りです。

イギリスは、1932年のオタワ会議(オタワ連邦会議)により、ポンド決済圏であるスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を形成しました。

廃止ではありません。

まとめ

イギリスは、シンガポール、ペナン、マラッカを1867年にイギリス直轄領の海峡植民地として統合しました。

これら3つの地域は、商品作物の事業には成功せず、国際貿易港としての役割を担うようになりました。

 

他方、1896年には、海峡植民地以外の4つの州が、マレー連合州としてイギリスの支配下に置かれます。

そして20世紀初頭には、海峡植民地とマレー連合州、それ以外のマレー半島諸国を合わせてイギリス領マラヤを形成しました。

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02

最も適当な選択肢は、

「シンガポールを獲得して、東南アジアにおける交易の拠点とした。」 です。


19世紀初め、マラヤの宗主国イギリスはシンガポールを自由港として開港しました。

ここを中心にした自由貿易網が形成され、周辺の植民地や華人商人などを引き込みつつ、東南アジア全体の貿易構造に大きな影響を与えました。

選択肢1. シンガポールを獲得して、東南アジアにおける交易の拠点とした。

1819年、ラッフルズがシンガポールを開港し、関税を課さない自由港としました。

ゴム・錫などマラヤ産品や周辺地域の産物が集まり、英領マラヤの自由貿易政策の象徴となります。

選択肢2. 19世紀後半に、自国の東インド会社の貿易独占権を廃止した。

イギリス東インド会社の独占廃止は1833年以前で、時期も内容も設問のマラヤ自由貿易政策とは直接結びつきません。

選択肢3. 清との間に、公行の廃止を定めた北京議定書を結んだ。

北京条約(1860年)は清朝との講和条約であり、マラヤ自由貿易政策とは別の外交経緯です。

選択肢4. オタワ会議(オタワ連邦会議)により、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を廃止した。

1932年のオタワ会議はむしろ帝国特恵関税を導入しスターリング圏を強化しました。

自由貿易とは逆方向の動きです。

まとめ

イギリスが自由港シンガポールを開いたことで、マラヤはゴム輸出を筆頭に自由貿易の中心地となりました。

この政策が東南アジアの交易ネットワーク拡大に拍車をかけ、表に示された1929年の輸出先分布にも反映されています。

 

 

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