大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問35 (日本史B(第1問) 問1)
問題文
マリ:私は、鎌倉時代に作られた地図1を持ってきたよ。
ケント:これが日本地図?左に東日本が描かれているよね。
マリ:中国地方の一部と九州地方は残っていないんだけどね。山城国を起点に、畿内・七道を線で結んでいるんだ。
ケント:七道は古代の道路で、a 古代の行政区分でもあるんだよね?諸国の形は大ざっぱだね。
マリ:畿内・七道それぞれに諸国の位置関係が分かれば良かったんじゃない?これと同じくらいの時期に作られた地図で、地図2も持ってきたよ。九州、四国と本州の西側の部分だけが残ってるんだ。
ケント:日本列島の周りを取り囲んでいるのは何だろう?
マリ:龍だという説があるよ。その外側には、b この地図が作製された時点で実在していた国のほかに、すでに存在しない国や、想像上の国も描かれているんだって。
ケント:へえ、面白いね。「羅刹(らせつ)国」や「雁道(かりのみち)」が想像上の国なんだ。
マリ:c 古代や中世の境界に対する意識は、それぞれ異なった特徴がありそうだね。
下線部aに関連して、史料1~3から読み取れる内容について述べた文として正しいものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
史料1
行方(なめかた)郡。(中略)癸丑(きちゅう)の年(注1)、茨城の国造 小乙下壬生連麿(しょうおつげみぶのむらじまろ)、那珂(なか)の国造 大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)等、総領(注2)高向(たかむこ)の大夫・中臣幡織田(なかとみのはとりだ)の大夫等に請いて、茨城の地の八里と那珂の地の七里とを合わせて七百余戸を割きて、別(わ)けて郡家(こおりのみやけ)を置けり。
(『常陸国風土記』)
(注1)癸丑の年:653年。以下の記述は、常陸国行方郡成立の経緯を説明している。
(注2)総領:現在の関東地方を広域的に統轄するため、朝廷から派遣された官人。
史料2
(天武13年10月)伊勢王等を遣わして、諸国の堺を定めしむ。
(『日本書紀』)
史料3
(養老2年5月)陸奥国の石城(いわき)・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)・曰理(わたり)と常陸国の菊多(きくた)(注3)との六郡を割(さ)きて石城国を置く。(中略)常陸国多珂(たか)郡の郷二百一十烟(えん)(注4)を割きて名(なづ)けて菊多郡と曰(い)いて石城国に属(つ)く。
(『続日本紀』)
(注3)陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多:現在の宮城県・福島県の一部。
(注4)烟:戸のこと。

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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問35(日本史B(第1問) 問1) (訂正依頼・報告はこちら)
マリ:私は、鎌倉時代に作られた地図1を持ってきたよ。
ケント:これが日本地図?左に東日本が描かれているよね。
マリ:中国地方の一部と九州地方は残っていないんだけどね。山城国を起点に、畿内・七道を線で結んでいるんだ。
ケント:七道は古代の道路で、a 古代の行政区分でもあるんだよね?諸国の形は大ざっぱだね。
マリ:畿内・七道それぞれに諸国の位置関係が分かれば良かったんじゃない?これと同じくらいの時期に作られた地図で、地図2も持ってきたよ。九州、四国と本州の西側の部分だけが残ってるんだ。
ケント:日本列島の周りを取り囲んでいるのは何だろう?
マリ:龍だという説があるよ。その外側には、b この地図が作製された時点で実在していた国のほかに、すでに存在しない国や、想像上の国も描かれているんだって。
ケント:へえ、面白いね。「羅刹(らせつ)国」や「雁道(かりのみち)」が想像上の国なんだ。
マリ:c 古代や中世の境界に対する意識は、それぞれ異なった特徴がありそうだね。
下線部aに関連して、史料1~3から読み取れる内容について述べた文として正しいものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
史料1
行方(なめかた)郡。(中略)癸丑(きちゅう)の年(注1)、茨城の国造 小乙下壬生連麿(しょうおつげみぶのむらじまろ)、那珂(なか)の国造 大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)等、総領(注2)高向(たかむこ)の大夫・中臣幡織田(なかとみのはとりだ)の大夫等に請いて、茨城の地の八里と那珂の地の七里とを合わせて七百余戸を割きて、別(わ)けて郡家(こおりのみやけ)を置けり。
(『常陸国風土記』)
(注1)癸丑の年:653年。以下の記述は、常陸国行方郡成立の経緯を説明している。
(注2)総領:現在の関東地方を広域的に統轄するため、朝廷から派遣された官人。
史料2
(天武13年10月)伊勢王等を遣わして、諸国の堺を定めしむ。
(『日本書紀』)
史料3
(養老2年5月)陸奥国の石城(いわき)・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)・曰理(わたり)と常陸国の菊多(きくた)(注3)との六郡を割(さ)きて石城国を置く。(中略)常陸国多珂(たか)郡の郷二百一十烟(えん)(注4)を割きて名(なづ)けて菊多郡と曰(い)いて石城国に属(つ)く。
(『続日本紀』)
(注3)陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・曰理と常陸国の菊多:現在の宮城県・福島県の一部。
(注4)烟:戸のこと。

- 国郡の設定や分割は、地方豪族の話し合いで決定した。
- 石城国は、既存の一か国を分割して作られた。
- 常陸国行方郡は、大化改新より前に国造の支配領域を分割して作られた。
- 国郡の行政区画の変更は、大宝律令の制定以降にも行われた。
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この過去問の解説 (1件)
01
正しい記述は、
「国郡の行政区画の変更は、大宝律令の制定以降にも行われた。」 です。
史料2では「伊勢王等を遣わして、諸国の堺を定めしむ」とあり、朝廷が中央官人を派遣して境界を画定しています。
地方豪族だけの協議ではありません。
史料3によれば、石城国は陸奥国の五郡と常陸国の一郡を合わせて設置されており、一か国のみの分割ではありません。
史料1の行方郡成立は癸丑(653)のことです。
大化改新(645)の後なので、この記述は誤りです。
大宝律令は701年に制定されましたが、史料3は養老2年(718)に石城国を新設したことを示しています。
律令制定後も朝廷は国郡の再編を行っており、史料からも確認できます。
史料1~3は、7世紀中葉から8世紀前半にかけて中央政府が主導して郡や国の新設・境界画定を進めたことを示しています。
その中で最も適切に内容を要約するのは、律令成立後も行政区画の再編が続いたという選択肢です。
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