大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問43 (日本史B(第2問) 問3)
問題文
a 陰陽道は、中国から伝来した暦学や天文学、陰陽五行思想などに基づき、徐々に形成されていった。
律令制下ではそれらの技術や思想を管轄するb 陰陽寮が設置された。陰陽寮は天文、暦や時刻のことに携わり、異変があった時には、国家的な災害や異変の予兆かどうか判定を行った。地方においても、大宰府には律令制定段階から陰陽師が置かれた。
9世紀以降、情勢が不安定となった東北地方や東国にも陰陽師が置かれるようになった。一方、c 怨霊や疫神をまつって災厄をのがれようとする信仰が広まるなか、陰陽寮に属する陰陽師たちは災害や異変の元凶を取り除く祭祀(さいし)にも従事していった。10世紀になると陰陽師は、天皇や貴族たち個人の要請にも応え、事の吉凶を占ったり、呪術を施したりした。
下線部cに関連して、死後に怨霊となって祟(たた)りをなしたと言われている人物に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
Ⅰ 藤原氏を外戚としない天皇によって重用され、その天皇の退位後に右大臣となったが、対立する藤原氏の策謀によって大宰府に左遷された。
Ⅱ 左大臣として政界を主導したが、外戚の地位が危うくなった藤原氏兄弟の策謀に陥り、謀反の罪をきせられて自殺した。
Ⅲ 天皇の弟で皇太子であったが、新都造営の責任者が暗殺された事件の首謀者とされ淡路国へ流刑となり、その途上で餓死した。
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問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問43(日本史B(第2問) 問3) (訂正依頼・報告はこちら)
a 陰陽道は、中国から伝来した暦学や天文学、陰陽五行思想などに基づき、徐々に形成されていった。
律令制下ではそれらの技術や思想を管轄するb 陰陽寮が設置された。陰陽寮は天文、暦や時刻のことに携わり、異変があった時には、国家的な災害や異変の予兆かどうか判定を行った。地方においても、大宰府には律令制定段階から陰陽師が置かれた。
9世紀以降、情勢が不安定となった東北地方や東国にも陰陽師が置かれるようになった。一方、c 怨霊や疫神をまつって災厄をのがれようとする信仰が広まるなか、陰陽寮に属する陰陽師たちは災害や異変の元凶を取り除く祭祀(さいし)にも従事していった。10世紀になると陰陽師は、天皇や貴族たち個人の要請にも応え、事の吉凶を占ったり、呪術を施したりした。
下線部cに関連して、死後に怨霊となって祟(たた)りをなしたと言われている人物に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、後の選択肢のうちから一つ選べ。
Ⅰ 藤原氏を外戚としない天皇によって重用され、その天皇の退位後に右大臣となったが、対立する藤原氏の策謀によって大宰府に左遷された。
Ⅱ 左大臣として政界を主導したが、外戚の地位が危うくなった藤原氏兄弟の策謀に陥り、謀反の罪をきせられて自殺した。
Ⅲ 天皇の弟で皇太子であったが、新都造営の責任者が暗殺された事件の首謀者とされ淡路国へ流刑となり、その途上で餓死した。
- Ⅰ ― Ⅱ ― Ⅲ
- Ⅰ ― Ⅲ ― Ⅱ
- Ⅱ ― Ⅰ ― Ⅲ
- Ⅱ ― Ⅲ ― Ⅰ
- Ⅲ ― Ⅰ ― Ⅱ
- Ⅲ ― Ⅱ ― Ⅰ
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この過去問の解説 (2件)
01
Ⅰの人物は菅原道真です。彼は藤原氏を外戚としない宇多天皇によって重用され、その天皇の退位後に右大臣となりましたが、901年の昌泰の変において、対立する藤原時平の中傷によって大宰府に左遷されました。また菅原道真は、894年に遣唐使の廃止の建議を出した人物としても知られています。
Ⅱの人物は長屋王です。彼は藤原不比等の死後、左大臣となって政界を主導し、藤原氏を抑えようとしましたが、729年に藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂ら、藤原不比等の四子の策謀により自害を命じられました。(長屋王の変)
Ⅲの人物は早良親王です。彼は桓武天皇の弟で皇太子でしたが、785年には、新都である長岡京の造営使であった藤原種継の暗殺の首謀者とされ、淡路国へ流刑となり、その途上で餓死しました。
したがって、
「Ⅱ(729年) ― Ⅲ (785年)― Ⅰ(894、901年)」
が正しい選択肢です。
誤りです。
誤りです。
誤りです。
正解です。
誤りです。
誤りです。
左大臣の長屋王は、藤原不比等の四子らの策謀により、729年の長屋王の変で自刃しました。
また、皇太子の早良親王は、長岡京造営使・藤原種継暗殺の嫌疑をかけられ、無実を主張しつつも、785年に淡路への流刑の途上で餓死しました。
そして、右大臣の菅原道真は、藤原時平の策謀によって、901年に九州の太宰府に左遷されます。
いずれの人物も、高位の役人や皇族であり、彼らは政敵の謀略や政争に巻き込まれて不幸な運命を辿りました。
その死後には、彼らは怨霊として人々に恐れられるようになり、各地に彼らを祀り、慰撫するための寺社仏閣が建立されたのです。
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02
怨霊として恐れられた出来事の年代順は、
・729年 Ⅱ 長屋王の変
・785年 Ⅲ 早良親王の配流・死去
・901年 Ⅰ 菅原道真の大宰府左遷
です。
したがって、選択肢の中で正しい配列は 「Ⅱ―Ⅲ―Ⅰ」 になります。
【人物と出来事の整理】
Ⅱ:長屋王(ながやおう)
・皇族出身で左大臣。
・藤原不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が外戚の立場を得るために謀反の罪をでっち上げ、729年に自害。
・その後に疫病が流行し、長屋王の祟りと恐れられた。
Ⅲ:早良親王(さわらしんのう)
・桓武天皇の弟で皇太子。
・長岡京造営責任者の藤原種継暗殺(785年)の黒幕とされ、淡路へ流される途上で餓死。
・怨霊となって桓武朝を悩ませたと伝わる。
Ⅰ:菅原道真(すがわらのみちざね)
・宇多天皇に重用され、醍醐朝で右大臣。
・藤原時平の讒言で901年に大宰府へ左遷、903年死去。
・のちに雷神・天神として信仰される。
誤りです。
誤りです。
誤りです。
正しいです。
誤りです。
誤りです。
奈良・平安期には、政争に敗れて非業の死を遂げた人物が怨霊として恐れられ、朝廷は御霊会や社殿の建立で鎮めようとしました。
この背景が、本文にある陰陽師の祭祀や呪術活動の拡大につながっています。
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