大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問54 (日本史B(第4問) 問4)

このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。

問題

大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問54(日本史B(第4問) 問4) (訂正依頼・報告はこちら)

次の文章は、日本史の授業を受けている高校生のナツさんとアキさんが、江戸時代における人々の結びつきについて話し合った際の会話である。この文章を読み、後の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

ナツ:江戸時代の武士たちの結びつきってどんなものだったのかな?
アキ:例えば彦根藩士や対馬藩士は、自分たちを「井伊掃部頭(かもんのかみ)家中」「宗対馬守家中」と称しているよね。
ナツ:同じ主君に仕える家臣たちは、主君の家の一員とみなされ、一体感があったようだね。庶民はどうだったのかな?
アキ:人口の大半を占める百姓たちは、日頃は村で過ごして、村や地域の中で深い結びつきをもっていたんじゃないかな。
ナツ:電車やインターネットもない時代だから、遠くにいる人との結びつきは限られていただろうね。
アキ:でも、17世紀前半に、( ア )ことなどによって、江戸と全国を結ぶ陸上交通が発達したんだよね。
ナツ:17世紀中頃までには、( イ )ために、水上交通も発達したんだね。
アキ:特に都市ではa 商人や職人が仲間・組合をつくるようになり、幕府も物価統制などにそれを活用したことも知られているね。
ナツ:町内のつながりや商人・職人の仲間以外にも、都市では緩やかな結びつきがあったんじゃないかな。b 文化的な結びつきも広がっていったみたいだね。
アキ:水上交通といえば、船が漂流して、外国に漂着することもあったみたい。c 近隣諸国との間で、漂流した人々を送り返すことも行われていたようだよ。海外ともいろいろな形で結びついていたことが分かるね。

下線部cに関連して、ナツさんとアキさんは次の史料2を読んだ。史料2は、日本の船が漂流して、1751年に中国に漂着した件について、後に長崎でまとめられたものである。この史料2に関して述べた後の文a~dについて、最も適当なものの組合せを、後の選択肢のうちから一つ選べ。

史料2
この者ども(注1)、(中略)厦門(アモイ)に送られ、官所(注2)において吟味これ有り。(中略)寧波(ニンポー)府鄞(ギン)県(注3)の信公興という商人に申し付けられ、船頭鄭青雲、財副(注4)林栄山、外(ほか)に童天栄・黄福、この二人は日本に渡海馴(な)れたる者にて、少々日本詞(ことば)を覚えたる由にて、通弁(注5)・介抱のため差し添え、十一月六日、寧波より出船、(中略)同二十日、当湊(みなと)に着船せり。右の厦門海防庁(注6)許氏より咨文(しぶん)(注7)一通、寧波府鄞県黄氏より咨文一通差し送り、(中略)菅沼氏より回咨(かいし)(注8)二通、両所に相渡さる。
(『長崎実録大成』)

(注1)この者ども:日本からの漂流民。
(注2)官所:中国の役所。
(注3)寧波府鄞県:現在の中国・寧波市にあった行政区域・行政機関。
(注4)財副:会計を担当する副船長格の船員。
(注5)通弁:通訳。
(注6)海防庁:海岸部の防衛に当たった役所。
(注7)咨文:公文書。
(注8)菅沼氏より回咨:長崎奉行菅沼定秀の返書。

a  史料2によれば、漂流民の送還に当たって、中国の役人と日本の役人との間で公文書がやりとりされた。
b  史料2によれば、漂流民の送還に当たって、中国の役人が日本まで同行して漂流民を送還した。
c  この漂流事件が起きた当時、中国と日本との間に正式な外交使節の往き来はなかった。
d  この漂流事件が起きた当時、中国から日本に来航する貿易船の数や貿易額はまだ制限されていなかった。
  • a・c
  • a・d
  • b・c
  • b・d

次の問題へ

正解!素晴らしいです

残念...

この過去問の解説

まだ、解説がありません。