大学入学共通テスト(地理歴史) 過去問
令和5年度(2023年度)追・再試験
問5 (世界史B(第1問) 問5)
問題文
中国の西安周辺を観光している菅原さんが、現地のガイドと会話をしている。
ガイド:ここは華清池(かせいち)と言い、古くから知られている温泉保養地です。( イ )と、その寵愛(ちようあい)を受けていた楊貴妃がたびたび訪れたことでも有名です。
菅原:楊貴妃については、その一族が( イ )の晩年に政治の実権を握ったことを世界史の授業で学びました。
ガイド:世界史における有名な女性という点では、b 西太后も清の同治帝時代以降に実権を握りましたね。実は彼女もかつてここに滞在したことがあるのですよ。
菅原:そうですか。なぜ彼女は西安に来たのですか。
ガイド:外国との戦争の際に、一時的に西安に逃れたのです。およそ1年半後に首都に戻り、その後も以前と同様、1908年に亡くなるまで朝廷で実権を握り続けました。なお、その時期は、清朝において光緒新政と呼ばれる改革が実施された時期と重なります。
菅原:西太后というと保守的なイメージを持っていたので、意外です。おや、あの建物には銃弾の跡がありますね。
ガイド:はい。1935年に中国共産党によってc ある宣言が出されましたが、その後( ウ )の率いる部隊があの建物を襲い、そこに滞在していた蔣介石を捕らえました。銃弾の跡はその時のものです。
菅原:共産党と国民党が接近するきっかけになったあの事件の舞台は、まさにここだったのですね。
下線部bに関連して、西太后が実権を持ち始めて以降の時期に清朝が行った事柄について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。
問題
大学入学共通テスト(地理歴史)試験 令和5年度(2023年度)追・再試験 問5(世界史B(第1問) 問5) (訂正依頼・報告はこちら)
中国の西安周辺を観光している菅原さんが、現地のガイドと会話をしている。
ガイド:ここは華清池(かせいち)と言い、古くから知られている温泉保養地です。( イ )と、その寵愛(ちようあい)を受けていた楊貴妃がたびたび訪れたことでも有名です。
菅原:楊貴妃については、その一族が( イ )の晩年に政治の実権を握ったことを世界史の授業で学びました。
ガイド:世界史における有名な女性という点では、b 西太后も清の同治帝時代以降に実権を握りましたね。実は彼女もかつてここに滞在したことがあるのですよ。
菅原:そうですか。なぜ彼女は西安に来たのですか。
ガイド:外国との戦争の際に、一時的に西安に逃れたのです。およそ1年半後に首都に戻り、その後も以前と同様、1908年に亡くなるまで朝廷で実権を握り続けました。なお、その時期は、清朝において光緒新政と呼ばれる改革が実施された時期と重なります。
菅原:西太后というと保守的なイメージを持っていたので、意外です。おや、あの建物には銃弾の跡がありますね。
ガイド:はい。1935年に中国共産党によってc ある宣言が出されましたが、その後( ウ )の率いる部隊があの建物を襲い、そこに滞在していた蔣介石を捕らえました。銃弾の跡はその時のものです。
菅原:共産党と国民党が接近するきっかけになったあの事件の舞台は、まさにここだったのですね。
下線部bに関連して、西太后が実権を持ち始めて以降の時期に清朝が行った事柄について述べた文として最も適当なものを、次の選択肢のうちから一つ選べ。
- キャフタ条約を結んだ。
- 憲法大綱を発布した。
- 軍機処を設置した。
- 関税自主権の回復に成功した。
正解!素晴らしいです
残念...
この過去問の解説 (1件)
01
正しい選択肢は「憲法大綱を発布した」です。
西太后が実権を握った後、清朝では光緒新政が進められ、その一環として憲法大綱が発布されました。
これが清朝の改革の一部であり、西太后の治世下で行われた重要な出来事です。
キャフタ条約は1640年代にロシアと結ばれたもので、西太后の治世とは関係がありません。
この選択肢は誤りです。
西太后が実権を握ってから、光緒新政が始まり、その一環として憲法大綱が発布されました。
この改革は近代化を目指す試みであり、西太后の治世に行われた重要な出来事です。
これが正しい選択肢です。
軍機処は清朝の軍事機関であり、1700年代初めに設置されました。
西太后の治世下で新たに設置されたものではありません。
誤りです。
関税自主権の回復は、日清戦争後の辛亥革命の後に行われた外交問題であり、西太后の治世で達成されたわけではありません。
誤りです。
参考になった数0
この解説の修正を提案する
前の問題(問4)へ
令和5年度(2023年度)追・再試験 問題一覧
次の問題(問6)へ